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ニスタット条約
署名1721年9月10日(旧暦で8月30日)
署名場所ウーシカウプンキ
締約国ロシア帝国とスウェーデン
主な内容大北方戦争の講和条約
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ニスタット条約(スウェーデン語: Freden i Nystad、ロシア語: Ништадтский мирный договор)は、大北方戦争の後、1721年9月10日(旧暦で8月30日)にロシア帝国とスウェーデンの間で結ばれた講和条約。
現在のフィンランドのウーシカウプンキ(Uusikaupunki、スウェーデン語でニュスタード
)において結ばれた。大北方戦争中にロシアが占領していたフィンランド、ヴィスマル、フォアポンメルン西部はスウェーデンに返還されたが、カレリアの大部分、エストニア、リヴォニア(スウェーデン領リヴォニア(英語版)、現ラトビア領)、イングリア(インゲルマンラント、イジョール)、またバルト海のサーレマー島とヒーウマー島(ともに現エストニア領)は、スウェーデンからロシアに割譲された。これにより、スウェーデンが築き上げた「バルト帝国」は名実共に崩壊し、ロシアがスウェーデンに代わってバルト海の覇権を握ることになった。 この条約によってバルト海の覇権を失ったスウェーデンでは、大北方戦争中にカール12世が戦死していたこととあわせ、国王の権威を低下させた。そのため王権の制限が進められ、絶対王政下における大国主義から、いわゆる「自由の時代(スウェーデン語: Frihetstiden)」へと移行することになった。一方で、新たにバルト海の覇権を握ったロシアは、ヨーロッパ政治における存在感を強めた。ヨーロッパの主要国はロシアに外交官を常駐させるようになり、国際政治において対ロシア関係を無視することができなくなった。国内でもピョートル1世がその威信を強め、ロシアの元老院から「皇帝」「大帝」などの称号を受けることになった。
結果・影響
参考文献
田中陽児、倉持俊一、和田春樹編 編『ロシア史 2 18世紀-19世紀』山川出版社〈世界歴史大系〉、1994年10月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-46070-6。
百瀬宏、熊野聰、村井誠人編 編『北欧史』(新版)山川出版社〈新版世界各国史 21〉、1998年8月。ISBN 978-4-634-41510-2。
関連項目
ストックホルム条約(1720年)
外部リンク
条約全文
ロシア語正文(ウィキソース)
⇒ドイツ語正文
⇒スウェーデン語訳文
『ニスタット条約
表
話
編
歴
大北方戦争の条約
ラヴァ
プレオブラジェンスコエ
ドレスデン
トラヴェンタール
ビルジャイ
ナルヴァ
ワルシャワ
アルトランシュテット (1706年)
アルトランシュテット (1707年)
ドレスデン
トルン
コペンハーゲン
ハノーファー
エストニアとリヴォニアの降伏
ルーツィク
プルト
コンスタンティノープル (1712年)
アドリアノープル
シュヴェート
シュテッティン
ベルリン
グライフスヴァルト
フレデリクスボー
ストックホルム
コンスタンティノープル (1720年)