ニコ・ロズベルグ
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ニコ・ロズベルグ
Nico Rosberg
ポルトガル・リスボンWebサミットにて(2018年11月)

署名
基本情報
フルネームニコ・エリク・ロズベルグ
略称表記ROS
国籍 ドイツ
出身地 西ドイツ
ヘッセン州ヴィースバーデン
生年月日 (1985-06-27) 1985年6月27日(38歳)
F1での経歴
活動時期2006-2016
所属チーム'06-'09 ウィリアムズ
'10-'16 メルセデス
出走回数206
タイトル1 (2016)
優勝回数23
表彰台(3位以内)回数57
通算獲得ポイント1594.5
ポールポジション30
ファステストラップ20
初戦2006年バーレーンGP
初勝利2012年中国GP
最終勝利2016年日本GP
最終戦2016年アブダビGP
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ニコ・エリク・ロズベルグ(Nico Erik Rosberg, 1985年6月27日 - )は、ドイツ出身の元レーシングドライバー

1982年F1ワールドチャンピオンフィンランド人のケケ・ロズベルグを父に持ち、レースにおいては母親の母国であるドイツ国籍で参戦。2016年にF1史上2組目の親子チャンピオン、ドイツ人として史上3人目のワールドチャンピオンとなった。
初期の経歴

1985年にドイツヘッセン州ヴィースバーデンにて生まれ、モナコで育つ。そのキャリアは常に家族、とりわけ父親に支えられたものとなる。

1996年、10歳の時にカートを始め、ヨーロッパアメリカなどの選手権を転戦。

2002年、16歳の時ジュニアフォーミュラに移行し、ドイツのフォーミュラ・BMWに参戦。20戦中9勝をあげ、その年のタイトルを獲得した。また、この年はウィリアムズで初のF1テストを行ってもいる。17歳でのF1ドライブは、当時の史上最年少である。

2003年には、父ケケのチームからユーロF3に参戦し、2004年に離脱するまでの間、幾つかの優勝をあげる。

2005年は、同年に国際F3000から改組しスタートしたGP2ARTグランプリチームから参戦した。第5ラウンドとなるマニ・クールでの第2レースを制すると、翌戦のシルバーストンでは第1レースでポールトゥウィンを飾り、更に翌戦のホッケンハイムの第1レースでハットトリックを達成する。その後はしばらく優勝から遠ざかり、チャンピオン争いではヘイキ・コバライネンに先行を許すが、バーレーンでの最終ラウンドで、第1レースと第2レースをともに制して、コバライネンを逆転して同シリーズの初代チャンピオンに輝いた[1]

11月には、父ケケの古巣でもある、F1のウィリアムズと翌年の契約を交わした。
F1での経歴
ウィリアムズ
2006年ウィリアムズ時代(2007年)

F1デビュー戦となった開幕戦バーレーンGPで7位入賞を果たしたのみでなく、史上最年少でファステストラップを獲得する活躍を見せた[2][3]。続く第2戦マレーシアGPでは予選3位を獲得し、その後の第5戦ヨーロッパGPでも7位入賞など、序盤は活躍を見せた。しかし、度重なる他車との接触やマシントラブルなどで、全18戦中9戦でリタイアを喫し、結果的に序盤で獲得した4ポイントから前進できずチームメイトのマーク・ウェバーには予選・決勝共に大差をつけられてシーズンを終えた。
2007年

引き続きウィリアムズから参戦。この年からウィリアムズのマシンにトヨタエンジンを搭載。信頼性も向上したことからリタイアは年間3回に減少し、第11戦ハンガリーGPから第14戦ベルギーGPまで4戦連続で入賞するなど着実にポイントを重ね、最終戦ブラジルGPでは自己最高位の4位入賞を果たした。シーズンオフには、マクラーレンへの移籍が噂されるなど、評価を上げた一年となったが、一発の速さがある一方で若さゆえのムラのある走りも多く、チームメイトのアレクサンダー・ヴルツが表彰台を獲得したのに対し、表彰台には後一歩届かなかった[4]
2008年初表彰台(2008年オーストラリアGP

チームメイトに中嶋一貴を迎え、2人のドライバーが共に二世ドライバーで、かつ両方の親(ケケ・ロズベルグ中嶋悟)がふたりとも『母国(フィンランドと日本)初のフルタイムF1ドライバー(但しケケはフィンランド国籍だが、ニコはドイツ国籍)』というラインナップで臨んだシーズンとなった。開幕戦オーストラリアGPでは荒れたレースの中で、初表彰台となる3位を獲得。このレースで優勝したカート時代からの僚友・ルイス・ハミルトンとパドックで抱き合ってはしゃいで喜びを爆発させた。第7戦カナダGPにてピットロード出口の赤信号を見落とすミスを犯し、同じく信号を見落としキミ・ライコネンに追突したルイス・ハミルトンの後方から追突。これにより次戦第8戦フランスGPでの予選10グリッド降格のペナルティが下された。シーズン中盤以降は徐々に戦闘力を落としていくマシンに苦戦したが、第15戦シンガポールGPではセーフティカーが導入されたタイミングや、その後に自身に課せられたペナルティの裁定が遅れたことなどが功を奏し、自己最高位となる2位表彰台を獲得した[5]。その一方で前年同様一発の速さがある一方で、ムラがある走りも残っており、ポイント数こそ差がついたものの、ニコと中嶋の入賞回数は同じ(5回)というシーズンだった。その一方で2度の表彰台経験からシーズン中から度々移籍の噂が流れるなど、その去就に注目が集まっていたが、2009年もウィリアムズに残留することが決まった[6][7][8]
2009年

開幕戦オーストラリアGPではフリー走行の全てのセッションでトップタイムを記録したが、期待された予選は5位に終わった。決勝はピットストップでトラブルに見舞われ順位を大きく落としながらも、レース終盤には自身2度目となるファステストラップを記録し、6位に入賞した。第2戦マレーシアGPでも入賞し、次の2戦こそ入賞圏外でレースを終えたが、その後の第5戦スペインGPから第12戦ベルギーGPまで、8戦連続で入賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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