ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
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ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
ルイ=レオポルド・ボワイー作)
生誕 (1796-06-01) 1796年6月1日
フランス共和国パリ
死没 (1832-08-24) 1832年8月24日(36歳没)
フランス王国パリ
コレラ
国籍 フランス
研究分野物理学者技術者
出身校エコール・ポリテクニーク
博士課程
指導教員シメオン・ドニ・ポアソン
主な業績カルノー・サイクル
カルノーの定理
影響を
与えた人物エミール・クラペイロン
ウィリアム・トムソン
ルドルフ・クラウジウス
プロジェクト:人物伝
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ニコラ・レオナール・サディ・カルノー(フランス語: Nicolas Leonard Sadi Carnot, 1796年6月1日 パリ - 1832年8月24日 パリ)は、フランス軍人物理学者技術者で、仮想熱機関カルノーサイクル」の研究により熱力学第二法則の原型を導いたことで知られる。
生涯

ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(軍人、政治家、技術者、数学者)の長男として生まれた。少年時代から、水車のメカニズムなど、科学的な現象に興味を持っていたという。また控え目で非社交的であったが、正義感と感受性の強い性格であった。

1812年、エコール・ポリテクニークに入学。1814年に卒業後公務実施学校工兵科へと進み、技師として活動した。1814年、15年のナポレオン失脚により、共和派の政治家であった父ラザールはマクデブルクでの亡命生活を余儀なくされたが、サディ・カルノーは王政復古下の軍隊に残った。

1819年参謀部の中尉に任命されたが、まもなく休職し、パリやその近郊で芸術鑑賞や楽器の演奏などのかたわら、熱機関と科学の研究を行った。当時パリ工芸院にいた応用化学者のニコラ・クレマンとも親交を持っていた。

1824年、『火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察』(以下、『火の動力』)を出版した。これは熱力学における画期的な論文であり、出版直後に技術者のジラールによりフランス学士院で紹介された。その場にはラプラスアンペールゲイ=リュサックポアソンなど、当時のフランスの科学者が多数出席していたとされる。しかしその場ではまったく反響を得ることがなかった[1]

1826年、工兵隊に戻り大尉となるが、軍隊の生活を嫌い、1828年に軍服を脱ぎ、熱機関と科学の研究を続けた。

1830年、フランス7月革命が起こるとカルノーはこれを歓迎、研究も一時中断した。しかし政治に直接的に関わろうとはしなかった。カルノーと弟のイッポリート・カルノーのどちらかを貴族院に迎え入れる提案があったときも、世襲を嫌う亡き父の立場を尊重し、弟と共にこの提案を断っている。

7月革命後は再び科学に没頭し、気体の性質などに関する研究を行った。しかしその研究途中の1832年6月、病に倒れ、同年8月24日、コレラにより36歳の生涯を終えた。死後、遺品はコレラの感染防止のためほとんどが焼却処分された。そのため、カルノーの経歴や人となりを伝えるものは、わずかに残された彼自身のノート(『数学、物理学その他についての覚書』、以下『覚書』)、そして弟のイッポリート・カルノーが著した伝記がほぼすべてである[2]
研究と業績
熱と仕事ワットの蒸気機関

カルノーが『火の動力』でテーマに掲げたのは、熱の動力としての効率である。

熱の動力としての活用としては、当時は蒸気機関が代表的であった。蒸気機関はジェームズ・ワットにより飛躍的に発展を遂げたが、その熱効率についての確固たる科学的理論はなく、開発はいきあたりばったりに行われている面があった[3]。カルノーは熱効率に限界はあるのか、そしてどうすれば効率を最大限に高めることが出来るのかを考えたのである。

このテーマを考えるにあたって、カルノーは熱の「動力」という概念を使用した。これは、父のラザール・カルノーが使用した「活性モーメント」と同じ意味であり[4]、「重さともちあげられた高さとの積[5]」で定義される。つまり現代で言う「仕事」に相当する。
カルノーの定理


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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