コンドルセ侯
ニコラ・ド・カリタ
Nicolas de Caritat, Marquis de Condorcet
最後の啓蒙思想家ニコラ・ド・コンドルセ
生誕 (1743-09-17) 1743年9月17日
フランス王国、リブモン
死没 (1794-03-29) 1794年3月29日(50歳没)
フランス共和国、パリ近郊ブール=ラ=レーヌ
国籍 フランス
職業数学者、哲学者、政治家
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コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年9月17日 - 1794年3月29日)は、18世紀フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。現在のエーヌ県リブモン生まれ、パリ近郊のブール=ラ=レーヌ没。
ドーフィネのコンドルセ侯爵領の領主であることから、日本では「コンドルセ」と略称されている。陪審定理や投票の逆理(コンドルセのパラドクス)など近代民主主義の原理を数学を用いて考察したことで知られる。 1758年、パリのコレージュ・ド・ナヴァールに入学、数学の才能を認められ、パリのコレージュ・マザランで数学を学んだ。1765年に「積分論」を刊行し、1769年にフランス王立科学アカデミーの会員に推挙された。啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。1770年代には解析を中心とする数学の理論研究の傍ら、1774年から1776年(ルイ16世統治初期)にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わる。Esquisse d'un tableau historique des progres de l'esprit humain, 1795 テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後進展し、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「社会数学
来歴
しかし、フランス革命の混乱による中断等で社会数学の試みは未完成に終わり、20世紀初頭までその内容と射程が正確に見直されることは少なかったと言えるだろう。その一因には19世紀を通じて大きな影響をふるった実証主義の祖であるオーギュスト・コントのコンドルセ評価が後世に与えた影響がある。「社会学」の創始者であるコントは、自らの「精神的父」としてコンドルセを挙げ、コンドルセの政治思想や歴史観を再解釈して評価した。だが、社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかったのである[3]。数学者からの低い評価も同様に影響した。唯一まとまった形で出版された1785年の「多数決の確率に対する解析の応用試論」が複雑な解析計算を展開する割にはごく一般的な結論しか導けていないことが批判の的となり、20世紀初頭、カール・ピアソンにより再評価されるまで忘れ去られることになったのである。
今日定着しているコンドルセのイメージは革命期以降の社会的・政治活動に由来するものが多い。彼は人類愛と資本寡占への批判をも含む人道的汎人文主義者として1788年に「黒人友の会」出稿。1789年のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、1790年にはアベ・シェイエスらと1789年協会を設立、ヴァレンヌ事件以降、共和主義者の論客となり、1791年9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となっている。1792年9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り1793年2月にジロンド憲法草案
(英語版)を議会に上程。同年のパリコミューンの事件でジロンド派は没落。6月14日山岳派憲法が可決。恐怖政治に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、現在のパリ6区セルヴァンドニ通りにあるヴェルネ夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。該著作は、オーギュスト・コント社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、天文学と、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へ発展してきており、進化の過程において、心理学と社会科学がようやく生まれてきたその精神史と社会科学の重要性を論じ、オーギュスト・コントの理論の礎を「人類の精神の進歩」の最も大切な学的領域として捉えている。