ニコラス・ブラザーズ
[Wikipedia|▼Menu]

フェイアード・ニコラス
本名フェイアード・アントニオ・ニコラス
生年月日 (1914-10-20)
1914年10月20日
没年月日 (2006-01-24) 2006年1月24日(91歳没)
出生地 アラバマ州モービル
死没地 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍アメリカ合衆国
民族アフリカン・アメリカン
職業俳優歌手ダンサー
ジャンル映画舞台ラジオ、TVショー、ステージ
活動期間1920年代?1990年代

 受賞
トニー賞
振付賞 1989年『Black and Blue』
その他の賞

テンプレートを表示

ハロルド・ニコラス
本名ハロルド・ロイド・ニコラス
生年月日 (1921-03-17) 1921年3月17日
没年月日 (2000-07-03) 2000年7月3日(79歳没)
出生地 アラバマ州モービル
死没地 ニューヨーク州ニューヨーク市
国籍アメリカ合衆国
民族アフリカン・アメリカン
職業俳優歌手ダンサー
ジャンル映画舞台ラジオ、TVショー、ステージ
活動期間1920年代 - 1990年代
配偶者ドロシー・ダンドリッジ(1942 - 1951) 他
テンプレートを表示

ニコラス・ブラザーズ(Nicholas Brothers)はフェイアード・ニコラス(1914年10月20日 - 2006年1月20日)とハロルド・ニコラス(1921年3月17日 - 2000年7月3日)の兄弟によるダンスデュオ。

彼らのアクロバティックなパフォーマンスはフラッシュ・ダンシングとも形容される。

ヴォードヴィルに囲まれて育った彼等は、ハーレム・ルネサンス期のジャズ・サーキットのスターとなり、1990年代の終わりまでステージ、映画、テレビにおいてスターとしてのキャリアーを保った。
前半生

兄のフェイアード・アントニオは1914年にアラバマ州モービルに生まれ[1]、弟のハロルド・ロイドは1921年にノースカロライナ州ウィンストン・セーラムに生まれ[1]、フィラデルフィアで育った。

母親はピアニスト、父親はドラマー、共に大学教育を受けた音楽家で、自身のバンドを持ちスタンダードシアター(フィラデルフィア)で演奏していた。

フェイアードは3歳になるころには両親の公演をいつもシアターの最前列の席で見るようになり、そして、彼が10歳になるころには既にアフリカン・アメリカンのヴォードヴィル俳優、特にダンサーとして同時代のアリス・ウィットマン、ウィリー・ブライアント、ビル・ボージャングル・ロビンソンと並び最も優れた一人と見なされるようになっていた[2]。兄弟は、タップダンスとアクロバティックスの組み合わせに魅せられていた。また、フェイアードはよく近所の子供たちを相手にアクロバティックスやピエロの芸を真似して見せていたという[2]

フェイアードもハロルドも正式なダンスの訓練は受けていない[3]。フェイアードはステージに立つプロのパフォーマーを観察することで踊り方、歌い方、演技の仕方を独学で学びとった。また彼はそうして学んだことを年少の兄弟や姉妹たちにも教え、最初に妹のドロシーと共にニコラス・キッズとしてステージに立ち、その後には弟のハロルドも加わった。

ハロルドは年長の兄フェイアードに憧れ、彼の動きや独特のスタイルを真似することで学んだ。兄弟姉妹によるチーム・ニコラス・キッズは、それからドロシーが抜けることで、よく知られたニコラス・ブラザーズとなった[4]
経歴

ニコラス・ブラザースは彼らの才能が広く知れ渡るようになると共に、フィラデルフィアの有名人になっていった。兄弟は最初に『The Horn and Hardart Kiddie Hour』というラジオ番組に雇われ、そしてまたフィラデルフィアの地元のスタンダードシアターやパールシアターに出演した。そして、兄弟がパールシアターでパフォーマンスしている際に、それを見たニューヨークの著名なヴォードヴィル劇場 ラファイエットのマネージャーが即座に自分の劇場でもパフォーマンスしてくれる様に頼んだ[2]

1932年、兄弟はハーレムコットンクラブにて彼らの主演公演を行った。この時ハロルドは11歳、フェイアードは18歳であった。そこで見せたジャズのテンポにアレンジされた『Bugle Call Rag』の演目は、劇場の主な客層であった白人の観客立ちを大いに驚かせ、そして、兄弟はこの時代のアフリカン・アメリカンのエンターティナーとして唯一白人のパトロンたちと席を同じくすることが許された[3][5]。コットンクラブにおける2年間の出演の間には、ラッキー・ミリンダーやキャブ・キャロウェイデューク・エリントン、ジミー・ランスフィールドなどのオーケストラとも共演している。また、同じころに兄弟にとって最初の映画出演となる『Pie Pie Blackbird』(1932年)に出演し、ユービー・ブレイクのオーケストラとも共演した[2]

タップダンスとアクロバティックス混ぜ合わせた彼らの独特のダンス様式は、 アクロバティック・ダンシングや、あるいはフラッシュ・ダンシングとも表現され、兄弟は多くの同業のダンサーや観客たちに影響を与えた[1]

兄弟の成功はその独特のダンススタイルによるもので、事実そのパフォーマンスはその時代において非常に人気があった[6]

コットンクラブにおける兄弟の出演は、今度は映画プロデューサーであったサミュエル・ゴールドウィンの目に留った。彼らのパフォーマンスに感銘を受けたゴールドウィンは、兄弟をカリフォルニアへと招き『Kid Millions』(1934年)に出演させた。ハリウッドでの映画出演はこの作品が兄弟にとって最初であった[7]

兄弟はブロードウェイにも進出した。デビュー作は 『Ziegfeld Follies of 1936』 であった。また、同じころにリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートによるミュージカル『Babes in Arms』(1937年)にも出演している[8]。『Babes in Arms』の振付師であり、彼らに出演のオファーをしたジョージ・バランシンは兄弟に感銘を与えた。バランシンによる訓練により兄弟は多くの新しい技術を習得した(また、逆に兄弟も彼のバレーダンサーたちを訓練したと言われている)[9]

1940年までに兄弟はハリウッドに移住して、それから数十年にわたり映画、ナイトクラブ、コンサート、ブロードウェイ、テレビ番組、それに南米アフリカヨーロッパに及ぶツアーなどで広く活躍した[1]

1948年の映画『踊る海賊』では、ゲストとして主演のジーン・ケリーと共演しダンスを披露した。ツアーで訪れたイギリスでは、ヨーロッパの巧妙なバレー団たちの公演を鑑賞する機会もあったという[2]
指導者として

ニコラス・ブラザーズはハーバード大学ラドクリフ・カレッジにおけるタップダンスのマスタークラスで指導をしたこともあった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef