ニコラエ・チャウシェスクの裁判と処刑
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ニコラエ・チャウシェスクとエレナ・チャウシェスクに対する裁判と処刑 ルーマニア共産党書記長、ルーマニア社会主義共和国大統領を務めたニコラエ・チャウシェスクとその妻、エレナ・チャウシェスクは、1989年12月25日に処刑された。
日付1989年12月25日
有罪判決を
受けた人ニコラエ・チャウシェスク
エレナ・チャウシェスク
罪状

6万人を殺害した

国家と国民に対して武装行動を組織し、国家権力を転覆させようとした

建物の破壊・損壊、都市における爆発で公共財産を破壊した

国民経済を弱体化させた

外国の銀行に10億ドルを不正に蓄財し、それを利用して国外逃亡を図ろうとした

判決死刑

ニコラエ・チャウシェスクとエレナ・チャウシェスクに対する裁判と処刑(ニコラエ・チャウシェスクとエレナ・チャウシェスクにたいするさいばんとしょけい、ルーマニア語: Procesul ?i executarea lui Nicolae ?i Elena Ceau?escu)の項目では、1989年12月15日から12月25日にかけてルーマニアで発生した革命の中でニコラエ・チャウシェスク (Nicolae Ceau?escu)と妻エレナ・チャウシェスクに対して行われた銃殺刑について解説する。

1989年12月15日、ルーマニア政府は、ティミショアラ (Timi?oara)に住むハンガリー人牧師に対して教区から立ち退くよう命じた。立ち退き命令に抗議する形で、キリスト教徒たちの集団ができあがり、群衆もこれに加わり、抗議運動は徐々に拡大し、勢いを増していった。12月20日、ニコラエ・チャウシェスクは非常事態宣言を布告し、ルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行った。チャウシェスクはティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。また、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[1][2]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」と訴えた[3]

12月21日、チャウシェスクは首都・ブクレシュティ (Bucure?ti)にて集会を開催し、集まった労働者たちに向けて演説を行ったが、その最中に騒動が発生し、抗議者・労働者と、軍隊、治安部隊との間で紛争が始まった。1989年12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡し、ブクレシュティから脱出してトゥルゴヴィシュテ (Targovi?te)に着くも、その日のうちに軍隊に捕らえられた。イオン・イリエスク (Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会 (Consiliului Frontului Salv?rii Na?ionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座を開設したこと、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、銃殺刑に処された[4]
革命までの流れ
ティミショアラ

1989年3月20日、ミッシェル・クレア(英語版)とレジョン・ロイ(Rejean Roy)、二人のカナダ人が、ティミショアラ (Timi?oara)に住むハンガリー人牧師トゥーケーシュ・ラースロー(T?kes Laszlo)を訪問し、密かに持ち込んだカメラでトゥーケーシュを取材し、録音した。3人のハンガリー人がカメラの持ち込みを支援し、その間、彼らは秘密警察セクリターテ(Securitate)から追跡されていた[5]3月31日、司教のポップ・ラースロー(Papp Laszlo)はトゥーケーシュにティミショアラでの説教行為を止め、孤立した教区があるミネウ村(Mineu)に移住するよう命じたが、トゥーケーシュはこれを拒否し、彼の信徒たちもそれを支持した。

1989年7月24日、ハンガリーの国営テレビの調査番組『パノラマ』が、3月に実施されたカナダ人によるトゥーケーシュへの取材映像を放送した。この二日後、ポップ司教はトゥーケーシュに書簡を送り、「トゥーケーシュ・ラースローは面談の中でルーマニアの国家に対して名誉棄損となる言葉を述べ、嘘まで吐いた」と非難し、トゥーケーシュの追放を命じた。カナダの『トロント・スター』紙は、「この取材映像の公開が、1989年12月の一連の出来事を誘発する契機となった可能性がある」と書いた[6]。ポップ司教はトゥーケーシュを教会の集合住宅から追い出すため、民事訴訟の手続きを開始した。トゥーケーシュの自宅の電気は止められ、食糧配給手帳も没収されたが、教区の住人はトゥーケーシュを支援し続けた。ルーマニア政府当局は数人を逮捕し、殴打した。1989年9月14日、ハンガリー人のエルノ・ウユヴァロシー(Ern? Ujvarossy)が、ティミショアラ郊外の森の中で遺体で発見され[7][8]、トゥーケーシュの父親も一時的に身柄を拘束された[9]。エルノの死は、「治安部隊による政治的暗殺」と見られている[7]。1989年7月にハンガリーが放送したトゥーケーシュへの取材映像の中で、トゥーケーシュは、「ルーマニア人は自分たちの人権さえも知らないのだ」と発言していた。2008年ドイツで放送された鉄のカーテンを題材にしたテレビ番組の中で、トゥーケーシュは以下のように語っている[10]

「この真意は、独裁者であるニコラエ・チャウシェスクを支持する必要は無いのだ、と伝えることにありました。チャウシェスクの仮面を剥ぎ取るために、どうしても必要であったのです。一般のルーマニア人やセクリターテにも衝撃を与えた模様です。あの当時、外国のテレビ放送の視聴は禁止されており、この映像はルーマニアとハンガリーの国境付近でのみ、視聴できました。この映像を観た人は誰もが衝撃を受け、とりわけ、映像はトランスィルヴァニアで広まり、ルーマニア国内の空気と世相に、思いも寄らぬ形で影響を及ぼしたのです。」

1989年10月20日、ティミショアラ裁判所は、トゥーケーシュの立ち退きを命じる評決を出し、トゥーケーシュはこれに控訴した。11月2日、刃物で武装した4人の人物がトゥーケーシュの自宅に押し入った[8]。セクリターテの諜報員が見守る中、トゥーケーシュとその友人たちは襲撃してきた者たちを撃退した。ルーマニアの特命全権大使はハンガリーの外務省に召喚され、ハンガリー政府はトゥーケーシュ・ラースローの身の安全を心配している趣旨を告げられた。11月12日、何者かが教区の建物の窓を割った[8]11月28日、ティミショアラ裁判所はトゥーケーシュによる控訴を棄却し、トゥーケーシュは1989年12月15日に正式に立ち退くことになった[11][9]


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