ニコラエ・チャウシェスクの個人崇拝
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ニコラエ・チャウシェスクの個人崇拝(ニコラエ・チャウシェスクのこじんすうはい、Cultul Personalit??ii lui Nicolae Ceau?escu, クルトル・ペルソナリタツィー・ルイ・ニコラエ・チャウシェスク)は、ルーマニアの共産指導者、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)に対して行われた数々の賛美である。1971年6月に中国と北朝鮮を訪問したチャウシェスクは、毛沢東金日成と会談した。国の指導者に対する強烈な個人崇拝を目の当たりにしたチャウシェスクは、それに大いに影響された。1971年7月6日、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議の場で演説を行い、「七月の主張」(Tezele din Iulie)と呼ばれる提言を発表した[1]。チャウシェスクによる初期の頃の統治に見られた比較的自由な気風は終わりを告げ、厳格な国家主義的イデオロギーがルーマニアに導入された。当初の個人崇拝はチャウシェスクに対してのみであったが、のちに彼の妻・エレナも個人崇拝の対象となった[2][3]
始源ルーマニア大統領に選ばれたチャウシェスクが、シュテファン・ヴォイテクから統治権の象徴である王笏を受け取る(1974年4月)

1968年8月20日ソ連がプラハに軍事侵攻を仕掛けた1968年8月21日、ルーマニアの首都・ブクレシュティ(Bucure?ti)にて国民集会が開催され、それに出席したチャウシェスクは演説を行い、「チェコスロヴァキアへの侵攻は甚だしい間違いであり、ヨーロッパの平和と社会主義の運命に対する重大な脅威であり、革命運動の歴史において恥ずべき汚点を残した」「兄弟国の内政への軍事介入は到底許されるものではないし、正当化もできない。それぞれの国において、社会主義をどのようにして構築すべきか、部外者にはそれをとやかく言う権利は無いのだ」と述べ、強い調子でソ連を非難した[4][5]。ソ連による軍事侵攻が始まる前の1968年8月16日、チャウシェスクはプラハを訪問し、チェコスロヴァキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dub?ek)と会談し、友好、協力、相互扶助の条約に署名し[5]、ドゥプチェクとの連帯を表明していた[6]

歴史家のデニス・デリータント(英語版)は、この演説のあとに「国内の報道機関と政府の当局者による声明の両方で、ニコラエ・チャウシェスクの人格と、ルーマニア国家の同一視が始まった」と書いた[3]。チャウシェスクの前任者であるゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)の時代にも個人崇拝はあったが、ニコラエ・チャウシェスクに対する個人崇拝は、ゲオルギウ=デジに対するそれをはるかに凌駕するものとなる[7]

1971年6月、ニコラエ・チャウシェスクは中華人民共和国北朝鮮を訪問し、毛沢東金日成と会談した[8][9][10]。彼らの個人崇拝(Cult of Personality)に影響されたチャウシェスクは、ルーマニアに帰国後、金日成のチュチェ思想から着想を得て、北朝鮮の国家体制を模倣するようになった[11][12][13][14]。チャウシェスクはチュチェ思想をルーマニア語に翻訳させ、ルーマニア国内に普及させた。

1974年3月28日、ルーマニアの憲法が改正され、最高行政権が国家評議会から唯一の元首である大統領に移譲され、国家評議会は大統領が引き続き主導する機関として存続した。新たな憲法によれば、大統領はルーマニア大国民議会(英語版)から選出され、任期は「5年間」であった。1974年3月29日、ニコラエ・チャウシェスクはルーマニア社会主義共和国(Republica Socialist? Romania)の大統領に選出されるとともに、事実上の終身大統領となる趣旨を宣言するに至った[15]1974年3月28日、ルーマニア大国民議会の議長を務めていたシュテファン・ヴォイテク(英語版)が退任した。1974年4月、ルーマニアの大統領に選出されたニコラエ・チャウシェスクに対し、ヴォイテクは統治権の象徴である王笏を手渡した。チャウシェスクは、大国民議会の開会式に登場する際にはこれを手に持った状態で姿を現わすようになった。サルバドール・ダリ(Salvador Dali)は、チャウシェスクに対して「大統領の王笏の制定という、あなたの歴史的な取り組みを強く称賛致します」と祝電の言葉を送った[16][17]。チャウシェスクは、大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア軍最高司令官、経済社会開発最高評議会議長、国家労働評議会議長、社会主義統一民主戦線(ルーマニア語版)の議長を兼任した。

ルーマニアの子供たちは、幼い頃から「党、指導者、国家を称える」詩や歌を学ばされた[18]。その目的は、ルーマニア国民のチャウシェスクへの反対の表明を不可能にすることであった。ニコラエ・チャウシェスクは「完全にして無謬の存在」であり、チャウシェスクに対するいかなる批判もありえない、と見做された[19]。ルーマニア生まれの歴史学者、ヴラディミール・ティスマナーノ(英語版)が論じたように、ニコラエ・チャウシェスクは、自らを国家の独立を保証する存在と考えており、自分自身に対するあらゆる形態の反対や異論は「犯罪」として扱われた。 チャウシェスクの無謬性に疑問の眼を向ける行為は、事実上、「ルーマニアの国防と主権を弱体化させんとする試みである」と見做された[20]
個人崇拝

1970年代の初頭からニコラエ・チャウシェスクに対する個人崇拝が始まるとともに、チャウシェスクは「祖国の父」(Tat?l Patriei)という呼び名を党内で徐々に築き上げていった。この指導者像は、ルーマニア共産党が公式に支持する「新たな歴史的概念」の一部を構成するもので、チャウシェスク自身はこの過程には干渉しなかった。1974年以降になると、彼は歴史上の著名な人物と自分を比較するようになった[21]。チャウシェスクに対する個人崇拝は組織的に展開され、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)、毛沢東ヨシップ・ブロズ・ティトー(?осип Броз Тито)に対する個人崇拝の水準に比肩するか、あるいはそれらを凌駕するほどにまで強まり、当時のルーマニア人からは密かに「マオ=チェスク」(Mao-Cescu)と呼ばれたこともあった[22]


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