ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола?й Петро?вич Реза?нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東およびアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。
露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その短い生涯はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。 サンクトペテルブルクに生まれる。14歳のころには既に5か国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務、のち海軍省次官秘書などを務めた。
生涯および事績
露米会社
1793年冬、レザノフはズーボフの代理としてイルクーツクのシェリホフの事業を視察するため、シベリア横断の旅に出た[2]。1794年夏にレザノフはイルクーツクに着いた。イルクーツクはレザノフの父も数十年前に官吏として赴任していたことがある街であった[3]。シェリホフが年に一度清国との国境の町キャフタで行う交易にもレザノフは同行した[4]。レザノフは、イギリスが海路を使って広州で行う交易に比べると、陸路による清露間のキャフタ交易が非効率かつ旧態依然であることを考えざるをえなかった[4]。1795年1月、レザノフはシェリホフの14歳の娘アンナと結婚し、新婦の持参金としてシェリホフの会社の持分が手に入った[5]。アンナは7年後に産褥死したが[4]、その間にレザノフは共同経営者として会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。しかし会社の所有権はシェリホフの妻ナターリアのものであり、ゴリコフの離脱にともない「アメリカ会社」と改名された[6]会社の経営からレザノフは次第に疎外されてゆく[7]。
レザノフは会社を取り戻して業務を拡大するため、イギリスの勅許会社のようにロシア皇帝から勅許を得て、ロシアの毛皮事業を独占すべきと考えた。レザノフはエカチェリーナ2世の宮廷をうまく立ち回り、勅許を自分に下すよう説得することに成功するが、直後にエカチェリーナ2世は没した。レザノフは新皇帝パーヴェル1世から勅許を得るために説得を最初からやり直したが、非常に精神不安定で強情な新皇帝から良い返事をもらえる見込みは絶望的であった。しかしレザノフは屈せずに皇帝の説得を続け、その間の1797年には、ライバル会社であるイルクーツクのミルニコフ会社をアメリカ会社に統合させて「合同アメリカ会社」を作り、その経営者となることに成功した。