ニコライ・マルコ
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ニコライ・アンドレーヴィチ・マルコ
生誕 (1883-05-04)
1883年5月4日
出身地 ソビエト連邦 ウクライナ社会主義ソビエト共和国
死没 (1961-06-23) 1961年6月23日(78歳没)
学歴ペテルブルク大学
ジャンルクラシック音楽
職業ピアニスト指揮者
担当楽器ピアノ
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ニコライ・アンドレーヴィチ・マルコ[1]ウクライナ語: Мико?ла Андр??йович Малько?, ロシア語: Никола?й Андре?евич Малько?, 英語: Nikolai Malko; 1883年5月4日 チェルニーヒウ州セマクィ - 1961年6月23日 シドニー)はソビエト連邦ウクライナ出身の指揮者。 
略歴

ウクライナに生まれる。父親がウクライナ人で母親がロシア人であった。

ペテルブルク大学哲学を修め、初期には音楽評論家としてロシア帝国で著作を出版するかたわら、ピアニストとして、その後は指揮者としても演奏活動を開始。1906年歴史学語学によりペテルブルク大学を卒業。ペテルブルク音楽院にも籍を置き、ニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・グラズノフアナトーリー・リャードフニコライ・チェレプニンらに師事した。1909年に音楽院を修了してマリインスキー劇場の指揮者に就任、それから6年後には首席指揮者に昇格した。1909年よりミュンヘンにおいてフェリックス・モットルに指揮法を師事し、特にリヒャルト・ワーグナーを研究した。

1918年ヴィテプスク音楽院の院長に就任し、1921年よりモスクワ音楽院で教鞭を執る。1921年から1924年までヴィテプスクとモスクワのほかにキエフハリコフでも指揮法の指導に携わった。1925年よりレニングラード音楽院の教授に就任。1926年レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任し、同年には門人ドミートリイ・ショスタコーヴィチの《交響曲 第1番 ヘ短調》の世界初演を指揮した。翌1927年には、ショスタコーヴィチの《交響曲 第2番「十月革命に捧ぐ」》を初演して同作を献呈されている。また、ニコライ・ミャスコフスキーの《交響曲 第5番》の初演も指揮しており[2]、ミャスコフスキーから《交響曲 第9番》を献呈された。

1928年レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者の座をアレクサンドル・ガウクに譲り渡すと、自らは音楽院での指導を続けた。1929年に西側からの出演要請を受けたのを機に、妻ともどもソビエト連邦を去り、ウィーンプラハに移住。コペンハーゲンにも暮らしており、デンマーク放送交響楽団の創設に手を貸して永久客演指揮者の称号を与えられている。第二次世界大戦が勃発すると、1940年に渡米して指揮法の教師となった。指揮法の技術についての見解をまとめて、1950年に『指揮者と指揮棒(英語: The Conductor and his Baton)』を上梓している。現在アメリカ合衆国で利用されているエリザベス・グリーン(Elizabeth A. H. Green)の手引書『近現代の指揮者(英語: The Modern Conductor)』(1996年)は、マルコが『指揮者と指揮棒』で唱えた原理にあからさまに依拠したものである。コペンハーゲン時代よりEMIレーベルに積極的な録音を開始し、ロンドンではフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音に取り組んだ。1951年にはデンマーク放送交響楽団を指揮してヴァウン・ホルンボーの《交響曲 第7番》の初演を指揮した[3]1954年にはイギリスでヨークシャー交響楽団の首席指揮者に迎えられている。

1956年オーストラリアに渡ってシドニー交響楽団の首席指揮者に着任し、1961年シドニーに歿するまで音楽監督に地位にあった。1959年米国国務省の認可を受けてソ連文化省の招聘に応じ、30年ぶりに帰国を果たしてモスクワレニングラードキエフを指揮して廻った。また同年には、東京交響楽団に招かれて日本にも訪れた。1960年にデンマーク王フレゼリク9世よりダンネブロ騎士勲章を授与されている。
附記

アメリカ合衆国で結成された国際的な職業音楽家の組合「デルタ・オミクロン(ΔΟ)」の会員であった
[4]

ショスタコーヴィチの証言』においては、ヴィンセント・ユーマンスの《二人でお茶を》を編曲するように慇懃な口調でショスタコーヴィチをそそのかしたとして揶揄されている。

EMIの最初の公式のステレオ録音は、マルコがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して演奏した、一連のプロコフィエフ作品を対象にして行われた(1955年2月)。すなわち、《古典交響曲》や《交響曲 第7番「青春」》、組曲《3つのオレンジへの恋》の音源である。


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