ニコライ・ボルコフ
プロフィール
リングネームニコライ・ボルコフ
ニコリ・ボルコフ
ボリス・ブレジニコフ
ベポ・モンゴル
ジョー・クロアチアン
ジョー・ペルゾビッチ
本名ヨシップ・ペルゾビッチ
(ジョセフ・ペルゾビック)
ニックネームロシアの白熊
身長192cm
体重140kg(全盛時)
誕生日 (1947-10-14) 1947年10月14日
死亡日 (2018-07-29) 2018年7月29日(70歳没)[1]
出身地 クロアチア
スプリト=ダルマチア郡スプリト
スポーツ歴ウエイトリフティング
トレーナースチュ・ハート
ジート・モンゴル
デビュー1968年
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ニコライ・ボルコフ(Nikolai Volkoff、本名:Josip Peruzovi?、1947年10月14日 - 2018年7月29日[2])は、クロアチア出身のプロレスラー。北米に移住後、ロシア系ギミックのパワーファイターとして活躍した[3]。
日本では「ニコリ・ボルコフ」と表記されていたが、より原音に近い発音は「ニコライ」であり、本項の記述もそれに準ずる。 共産ユーゴスラビア時代の構成国クロアチア出身で、父親はイタリア系クロアチア人、母親はロシア人である[3]。ユーゴではウエイトリフティングの選手として活躍し、1967年にオーストリアのウィーンで行われたトーナメントに参加した後、カナダへ越境[4]。 カルガリーのスタンピード・レスリングにてスチュ・ハートのトレーニングを受け[4]、1968年9月20日、後のパートナーとなるニュートン・タットリーを相手に、ジョー・クロアチアン(Joe Croatian)の名義でデビュー[5]。翌1969年、ベポ・モンゴル(Bepo Mongol)をリングネームに、ジート・モンゴルと改名したタットリーとのモンゴル人ギミックの悪役タッグチーム、ザ・モンゴルズ(The Mongols)を結成してアメリカに進出[6]。 1970年よりWWWFに登場し、6月15日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてビクター・リベラ&トニー・マリノを破り、WWF世界タッグ王座の前身であるWWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得[7]。1972年7月にはザ・モンゴルズとして日本プロレスに初来日、7月30日に福岡スポーツセンターにて坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している[8]。 その後、ジートとのタッグを解消してシングルプレイヤーに転向(後任には、後にマスクド・スーパースターやデモリッション・アックスとして活躍するビル・イーディーが「ボロ・モンゴル」を名乗って加入)。1974年1月、ロシア人ギミックの大型ヒール、ニコライ・ボルコフ(Nikolai Volkoff)に変身して再度WWWFに登場[9]。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、3月4日と4月1日のMSG定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に連続挑戦した[9]。同年8月にはブラッシーと共に新日本プロレスに来日[10]。タッグマッチでアントニオ猪木からフォール勝ちを収め、9月10日には愛知県体育館にてシーク・オブ・シークス・オブ・バグダッドと組み、猪木&坂口が保持していた北米タッグ王座に挑戦した[11]。 翌1975年は、ボリス・ブレジニコフ(Boris Breznikoff)の変名でAWAに登場。ボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、クラッシャー・リソワスキー、ラリー・ヘニング、ビル・ロビンソン、イワン・プトスキー、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル、クリス・テイラー、ジョー・ルダックらと対戦、ドイツ系ヒールのバロン・フォン・ラシクやホースト・ホフマンとも共闘した[12]。 1975年下期からはリングネームをニコライ・ボルコフに戻し、ジム・バーネットが主宰していたNWA圏のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦[13]、9月23日にマイク・マッコードを破りNWAジョージア・ヘビー級王座を獲得した[14]。10日後の10月3日にミスター・レスリング2号に敗れてタイトルを失うも[14]、同月25日にはブルート・バーナードと組んでディック・スレーター&ボブ・オートン・ジュニアからNWAメイコン・タッグ王座を奪取している[15]。
来歴