ニコライ・プルジェヴァリスキー
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ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェヴァリスキー

生誕 (1839-04-12) 1839年4月12日
ロシア帝国スモレンスク県
死没1888年11月1日(1888-11-01)(49歳)
ロシア帝国カラコル
国籍 ロシア帝国[1]
職業探検家、地理学者
著名な実績中央アジア探検
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ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェヴァリスキー(ロシア語: Никола?й Миха?йлович Пржева?льский, ラテン文字転写: Nikolai Mikhailovich Przheval'skii, 1839年4月12日旧暦3月31日] - 1888年11月1日旧暦10月20日]、プルジェワリスキーとも)はロシア帝国地理学者[1]中央東アジア探検家として知られる。最終目的地としたチベットラサまではたどり着くことはできなかったものの、チベット北部や青海そしてジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区北部)など西洋世界に知られていなかった地域を旅した[2]。彼は中央アジアの情報をヨーロッパ人に大いに齎し、唯一現存する野生馬プルジェワリスキーウマ(学名:Equus przewalskii)について最初に記述して[3]、その種名が彼に因んで命名された。
生涯
出生

プルジェヴァリスキーが生まれたのはスモレンスク県のポーランド化されたベラルーシ系貴族(シュラフタ)の家系であり、ポーランド語では彼の姓はプシェヴァルスキ(Przewalski)といった。彼は故郷で教育を受けた後、サンクトペテルブルクの軍事アカデミーに入った。1864年、ワルシャワの軍事学校の地理教師となった。
ウスリー遠征

1867年にはロシア地理学協会へ申請が通り中央シベリアのイルクーツクへと派遣された。彼の目的は露中国境を流れるアムール川の大きな支流であるウスリー川流域の探検であった。これが彼の最初の大きな探検であり、後にこの2年間の探検の日記は『ウスリー地方旅行1867-1869』として刊行された。

その後、彼は人生を中央アジア探検に費やした。
モンゴルとタングート人の国へ

1870年から1873年にかけて、キャフタからゴビ砂漠を横断して北京に向かい、揚子江(長江)上流を探検し、1872年にはチベットを横切った。彼が調査した面積は18,000km2に及び、収集し持ち帰った生物は植物5000種、鳥類1000種、昆虫3000種、それに加えて70匹の爬虫類と130匹の異なった哺乳類の毛皮があった[4]。帝立地理学協会からコンスタンチン・メダルが授与され、中将へと任命されて、皇帝の幕僚に取り立てられ、聖ウラジーミル騎士団の第4階級に列せられた。この探検の時、中国では同治陝甘回変(ドゥンガン蜂起;1862?1877年)が勃発していた[5]。この旅によって中国の西でのヤクブ・ベグの王国によるムスリムの反乱に関する重要な情報がもたらされ、ロシア帝立地理学協会での彼の講義は溢れかえる聴衆から「雷のような喝采」を受けたという。ロシアの新聞≪Голос≫はこの旅を「我々の時代で最も大胆なことの一つ」と呼んだ[6]
ジュンガリアとロプノール

1876年から1877年にかけて天山山脈を越えて東トルキスタンを縦断し、ロプノールだと彼が信じていた場所を訪れた。そこは伝えられるところによればマルコ・ポーロ以来ヨーロッパ人が誰も訪れたことがないという[7]。この探検隊は10人の男たちと24頭のラクダ、4頭の馬からなり、3トンの荷物と資金25,000ルーブルを持っていた。しかし探検は疫病と質の悪いラクダによって悩まされた。1877年9月、キャラバンはましなラクダと馬に交換し、72,000発分の弾薬と大量のブランデー、茶およびターキッシュ・ディライトを用意して、ラサへと向かったが、たどり着く事はできなかった。
チベット大探検モウコノウマ(別名:プシバルスキーウマ、プルジェワリスキーウマ)。1879年の探検中に発見された。

1879年から1880年にかけて哈密を経由してツァイダム盆地を通り、ココノール(青海湖)へ。この探検では天山山脈を越えてチベットに入りラサまで260kmの地点まで進んだが、ここでチベット当局によって引き返させられた。
黄河源流とタクラマカン砂漠ニコライ・プルジェヴァリスキーによる内陸アジアへの第四回探検隊

1883年から1885年にかけては、キャフタからゴビ砂漠を越えてアラシャンそして天山山脈東部へ向かい、揚子江で引き返し、再びココノールへ、そして西へ進んでホータンイシク・クル湖へ行った。
晩年、そして没後カラコルにあるニコライ・プルジェヴァリスキーの墓

これらの大冒険の結果中央アジアの地理と動植物相の研究は新たな時代の幕明けとなった。この広大な土地についてはこの当時の西洋世界からは比較的知られていなかったのである。その他、バクトリアラクダ(フタコブラクダ)やプルジェワリスキーウマ、プルジェワリスキーガゼルの野生の群れを報告している。これらの動物は多くのヨーロッパの言語では彼の名前に因んだ種名で呼ばれている。プルジェヴァリスキーにはロシア語で書かれた5つの大著があった。

5回目の探検に出発する直前にプルジェヴァリスキーは、イシク・クル湖畔のカラコル(現キルギス領)でチュイ川の水を飲んで、チフスに感染して死亡した[8][9]。この時に皇帝は彼を偲んでカラコルの町の名をプルジェヴァリスクと変えさせた。同地には彼の業績を称えた記念碑や博物館があり、またサンクトペテルブルクにも記念碑がある。

彼の死から1年も経たずしてミハイル・ペフツォフが中央アジア奥地への探検隊長の任を引き継いだ。プルジェヴァリスキーの研究もまた、彼の若い弟子であったピョートル・クズミチ・コズロフによって続けられた。サンクトペテルブルクのアレクサンドル庭園にあるニコライ・プルジェヴァリスキーの記念碑


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