ニコライ・ブハーリン
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ソビエト連邦政治家ニコライ・ブハーリンНикола?й Буха?рин

生年月日 (1888-10-09) 1888年10月9日
出生地 ロシア帝国モスクワ
没年月日 (1938-03-15) 1938年3月15日(49歳没)
死没地 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
出身校モスクワ大学法学部
所属政党ボリシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
配偶者アンナ・ラーリナ(ロシア語版)
コミンテルン執行委員会議長
在任期間1926年10月 - 1929年4月
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レニングラードの集会にて左から2人目がブハーリン、(右へ)キーロフ・モロトフ(1925年)

ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン(ロシア語: Никола?й Ива?нович Буха?рин, ラテン文字転写: Nikolai Ivanovich Bukharin、1888年9月27日グレゴリオ暦10月9日) - 1938年3月15日)は、ロシア革命家ソビエト連邦政治家ソビエト連邦共産党有数の理論家としてウラジーミル・レーニンに評価され、レーニンの死後、ヨシフ・スターリンと協力するが、右派として批判されて失脚、粛清・銃殺された。死後、ミハイル・ゴルバチョフ政権でペレストロイカが開始されると、名誉回復を受けた。
生涯

1888年9月27日(グレゴリオ暦では10月9日)モスクワに生まれる。両親は教員で、父イヴァン・ガヴリロヴィチは、モスクワ大学で学んだ数学者だった。知的な雰囲気の家庭で育ったブハーリンは、少年時代は、父親の影響で鳥類に熱中した。

中学校在学中にマルクス主義の影響を受け、革命運動に関係し、1905年ロシア社会民主労働党に入党し、党の分裂の際は、ボリシェヴィキに参加する。1907年モスクワ大学法学部に入学する。1908年に党モスクワ委員会のメンバーとなる。委員会の中でブハーリンは次第に頭角を現す。1909年当局によって二回逮捕されるものの、保釈された。1911年に逮捕、投獄され、大学を放校処分となる。ブハーリンは、アルハンゲリスク県のオネガに3年間流刑となるが、脱走し、モスクワ経由でドイツに亡命した。ハノーファーを経て、1912年秋にウィーンに移る。ウィーン大学経済学を学ぶ。1914年まで経済学社会学を学び、新聞雑誌に寄稿する中で亡命していたボリシェヴィキの中で理論家として一頭地を現すようになる。

1915年「帝国主義と世界経済」、1916年「帝国主義国家の理論によせて」の両論文をそれぞれ発表し、レーニンの帝国主義論と国家観に影響を与えている。これと前後して、1914年オーストリア当局によってスパイの嫌疑をかけられ逮捕される。その後、オーストリアを追われたブハーリンはスイスに亡命し、ローザンヌに住んだ。1915年に北欧アメリカニューヨークに移る。


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