ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ
[Wikipedia|▼Menu]
NFS・グルントヴィ NFS・グルントヴィ

ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig、1783年9月8日 - 1872年9月2日)は、デンマークの牧師、作家、詩人、哲学者で教育者でまた政治家でもあった。通常、名前はNFS・グルントヴィと略称される。彼は、デンマーク史において最も影響力の大きかった人物の一人で、その哲学は19世紀後半、デンマークの新しい民族主義を形成するに際して大きな刺激を与えた。彼は、ファーストネームを三度変え、三度目は彼の76年の人生にちなんで名付けられている。グルントヴィと彼の後継者たちは、現代のデンマークの国民意識に現在も大きな影響を及ぼしている。それは国民文学のなかに広く染み渡っており、それは深い信仰の力によっても支えられている。
目次

1 生涯

1.1 幼少期と教育

1.2 経歴


2 結婚と家族

3 キリスト教思想

4 教育観

5 ベーオウルフとアングロ・サクソン文学

6 逸話

7 顕彰

8 文献

8.1 諸版

8.2 伝記


9 読書案内

9.1 英語によるもの

9.2 他の外国語の文献


10 外部リンク

11 脚注

生涯
幼少期と教育

NFS・グルントヴィは、ルター派の牧師、ヨーハン・オットーセン・グルントヴィの息子としてシェラン島のウズビュ(Udby)という小さな村で生まれた。身近な人達からはニコライというよりも、むしろフレデリクと呼ばれて育った。彼は、大変宗教的な環境の中で育ったが、北欧の古くからの伝説や伝統にも敬意を払っていた。彼はヨーロッパの啓蒙主義の伝統の中で学校教育を受けたが、彼の理性的な信仰心は、ドイツのロマン主義や北ヨーロッパ諸国の歴史の中で揺れ動いた。1791年、彼はユトランド半島の牧師、ラウリド・フェルドのもとに送られそこで生活することになり、1798年からオーフスの大聖堂学校で学び、そこを卒業した。彼は、1800年に神学を学ぶためにコペンハーゲンに赴き、1801年コペンハーゲン大学に入学を許された。[1][2] 学生生活と並行して、グルントヴィは、アイスランド語とアイスランド・サーガの勉強を始めた。
経歴

1805年、グルントヴィはロラン島のある家で家庭教師の職を得た。その後の3年間、彼は自分の自由になる時間の殆どをウィリアム・シェイクスピアフリードリッヒ・シラー、そしてフィヒテの勉強に当てる。[3] 1802年、彼の従兄弟で哲学者のヘンリク・シュテフェンス(1773年 - 1845年)が、ドイツ留学からシェリングの教えをタップリと受けてコペンハーゲンに帰ってきた。彼の講義とアダム・ゴットロープ ・エーレンスレーヤー (Adam Oehlenschlager)の初期の詩作が、グルントヴィに文学への新たな目を開かせる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef