ニコライ・ネフスキー
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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー家族とともに(1929年)
人物情報
生誕 (1892-03-03) 1892年3月3日
ロシアヤロスラヴリ
死没1937年11月24日(1937-11-24)(45歳)
出身校ペテルブルク大学東洋学部
学問
研究分野言語学東洋学民俗学
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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー (Николай Александрович Невский, Nikolai Aleksandrovich Nevsky, 1892年3月3日(ロシア暦:2月20日)- 1937年11月24日) は、ロシアソ連の東洋言語学者東洋学者民俗学者

日本で、アイヌ語宮古島方言日本民俗学・台湾のツォウ語、特に、西夏語研究ではこの分野の第一人者として没後、評価される。帰国後、社会主義革命が勃発し、日本人妻イソが日本国のスパイとされ、妻と共に銃殺刑に遭う。
経歴

1892年、ヤロスラヴリに生まれる。生まれて1年にもならないうちに母と、4歳で県内の地方裁判所予審判事だった父と死別し、ルィビンスクの母方の祖父N・サスニンの家に引き取られた[1]

1900年8月、ルィビンスク中学校(ギムナジウム)に入学する[2]

この頃、「ルィビンスク在住のタタール人と知り合い[3]」、タタール語を習った。また、友人に影響され、「独学でアラビア文字を覚えた[3]」。

1909年、ルィビンスク中学校を銀メダルで卒業した後、サンクトペテルブルク大学東洋語学部とサンクトペテルブルク工芸専門学校の両校に合格するが、叔母の意嚮で後者に進学する[4]。1910年夏に退学し、東洋語学部に入校し直し、中国語・日本語を専攻する[5]レフ・シュテルンベルク(民族学)、V・アレクセエフ(支那学)、ボーダン・ド・クルトネ(言語学)、V・バルトリド(中央アジア史)らに教えを受けた[6]。シュテルンベルクは1904年から1914年まで、人類学・民族学博物館で学生主催の民族学講義に参加していた[7]。中国語の教師としてアレクセイ・イワノビッチ・イワノフもいた[8]
日本留学

1913年、日本に二ヶ月間旅行に出掛け、東京に滞在し日本文学を研究した[9]1914年に大学卒業後、教授候補者として勉学を重ねた[10]。1915年、大学の官費留学生として2年間の予定で日本に留学する[10]。7月に東京につき、菊富士ホテルに逗留、約半年後に東京大学に通っていたニコライ・コンラドとともに本郷駒込林町に一戸を構え[11]、ともに漢学者高橋天民から漢文を習った[12]。その後、中山太郎を通して柳田國男折口信夫金田一京助山中共古佐々木喜善らと知り合う[13]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}新村出羽田亨らとも親交を結んだ[要出典]。しかし、留学終了予定だった1917年、ロシア革命ロシア内戦が起こり、本国からの送金が停止されて働かなければいけなくなった上に、健康をも害し、帰国を断念する[14]

ネフスキーの日本語による最初の発表物は、1918年8月に日本の雑誌『土俗と伝統』に掲載された記事「農業に関する血液の土俗」と見なされていたが[15]、桧山真一は[16]、6か月前の1918年2月、雑誌『太陽』に、ニコライ・ソスニン[17]という仮名で発表した記事「冠辞異考」を見つけた[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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