ニコライ・ゴーゴリ
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ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ
Николай Васильович Гоголь
Микола Васильович Гоголь
ニコライ・ゴーゴリの肖像(F.A.モレル筆・1841年)
誕生1809年4月1日
ロシア帝国 ポルタヴァ県ソローチンツィ
(現: ウクライナ ヴェルィーキ・ソローチンツィ
死没 (1852-03-04) 1852年3月4日(42歳没)
ロシア帝国 モスクワ
職業小説家、劇作家
国籍 ロシア語
代表作ミルゴロド・死せる魂
署名
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ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Мико?ла Васи?льович Го?голь[1] / ロシア語: Никола?й Васи?льевич Го?голь; 1809年4月1日ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日(ユリウス暦2月21日))は、ロシア帝国小説家劇作家。戸籍上の姓はホーホリ=ヤノーウシクィイ Го?голь-Яно?вський(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキーГо?голь-Яно?вский)。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。

ミハイル・ブルガーコフ、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}エドガー・アラン・ポー[要検証ノート]、フョードル・ドストエフスキー、その他多くの作家に多大な影響を与えた[2]

ロシアのリアリズム文学を創始した一人。社会の腐敗や人間の卑俗さを鋭く風刺しながら描写した。戯曲『検察官』は出世作で、喜劇の傑作として名高い。
生涯

1809年ロシア帝国ポルタヴァ県ソロチンツィ(現在はウクライナ)の小地主の家に生まれる。

ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖は姓をヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)といい、ウクライナの聖職者だった。18世紀後半、祖父が婚姻によって領土を得ると、ヤノーウシクィイ家は地主階級となった。しかし1783年、ウクライナに農奴制が導入されるにあたり、貴族の称号を持たない地主は土地と農奴の所有を許されなくなる。そのためヤノーウシクィイ家はフメリニツキーの乱に参加したウクライナ・コサックの連隊長オスタープ・ホーホリ(ロシア語:オスタープ・ゴーゴリ)なる人物を家系図筆頭に据え、姓をホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)と改めた[3]。父のヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ワシーリー・ゴーゴリ=ヤノフスキー)はアマチュア劇作家で、ウクライナ語による劇作品を2篇のこしている。

1818年、9歳で弟イワンと共に親元を離れポルタヴァの小学校に入学。翌年、弟が死去。ゴーゴリは深い衝撃を受ける。

1821年ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、父譲りの演劇の才を発揮。学校演劇では役者として老け役や吝嗇漢を得意とした。

1828年に高等中学校を卒業すると帝都サンクトペテルブルクに移り、V.アロフという筆名で長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』を自費出版。この詩は酷評を受け、ゴーゴリは失意のあまり一時国外に逃亡。同年、ペテルブルクに戻ったゴーゴリは今度は俳優を志すも失敗。


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