ニキ・ド・サン・ファル
Niki de Saint Phallefr
Erling Mandelmann
ニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle、1930年10月29日 - 2002年5月21日)は、フランスの画家、彫刻家、造形作家、映像作家。本名はカトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サン・ファル(Catherine Marie-Agnes Fal de Saint Phalle)。
ファッション・モデルとして活躍した後、アートセラピーとして絵を描き始め、芸術表現による自己解放として射撃絵画を制作。挑発的・攻撃的な作品、特に社会における女性の役割を批判的に表現する作品(主にアサンブラージュ)から、やがて、女性性を肯定・強調する《ナナ》シリーズへと転じた。ストックホルム近代美術館の企画として制作した巨大なナナ像の《ホン》が大きな成功を収めて以来、《ナナ》やモンスター、神話・伝説に基づく鳥、蛇などをモチーフにした大規模な彫刻作品《ゴーレム》、《ノアの方舟》、《ストラヴィンスキーの泉》、《太陽神》、《守護天使》、《カリフィア女王の魔法の輪》などを次々と発表。1998年に、トスカーナ(イタリア)で20年以上かけて制作・造園した彫刻庭園《タロット・ガーデン》が完成。2000年に高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞。同年から亡くなる2002年まで、シュプレンゲル美術館(英語版)(ハノーファー、ドイツ)とニース近現代美術館(フランス語版)(フランス)に多くの作品を寄贈した。映像作品として《ダディー》、《夜より長い夢》がある。 ニキ・ド・サン・ファルは、1930年10月29日、アンドレ・マリー・ファル・ド・サン・ファル(1906-1967)とジャンヌ・ジャクリーヌ・マルグリット(旧姓ハーパー、1908-1978)の第2子カトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サン・ファルとして、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌで生まれた[1][2]。父アンドレはフランスの古い貴族の血を引き、母ジャンヌはアメリカ人エリート実業家とフランス人女性の娘であった[2]。サン・ファル家は裕福な家庭で、1930年までニューヨークに住んでいたが、1929年のウォール街大暴落の影響で、父アンドレ・マリーが兄弟とともに経営していた銀行「サン・ファル & カンパニー」が倒産し、故国フランスに戻っていた。ニキは、自分のことを「デプレシオン(Depression)の子」と表現した。世界恐慌(Grande Depression)のときに生まれたことと、父親が他の女性と関係を持ち、母親が鬱状態(depression)にあったときに生まれたという二重の意味においてである[1]。ニキは兄ジョン、妹クレール、エリザベス、弟リチャードの5人姉妹兄弟である[3]。 両親は生活を立て直すために、翌1931年に長子ジョンとニキをニエーヴル県(ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏)の田舎に住む父方の祖父母に預けてアメリカ合衆国に戻った。1933年8月に、コネチカット州グリニッジに住む両親に呼び寄せられた。この頃(3歳か4歳の頃)、母に「ニキ」と呼ばれ、この名前を芸術家として生涯にわたって使うことになる[1][3]。 1937年に一家はニューヨーク市に居を定め、ニキは「ナナ」というニックネームの乳母に育てられた。「ナナ」はニキが後に彼女の代表作である一連の豊満な女性像に付けた名前である。ただし、作品の《ナナ》は、「女の子」を意味するフランス語であり、「すべての人(everyman)」をもじった「すべての女性(everywoman)」、典型的な女性、女性一般、あるいは女性の原型を表わす[4]。 ニキが晩年にすでに死去した母ジャンヌ宛に書いた出紙によると、ジャンヌは厳格な女性であり、「何よりも子どもの幸せを望む他の母親と違って、子どもの成功を願っていた」という[5]。また、後にハリー・マシューズ
生涯
背景