ニカラグア事件
[Wikipedia|▼Menu]


当事国の位置。緑が原告国ニカラグア。オレンジが被告国アメリカ合衆国。
裁判の大まかな流れ
1984年4月4日ニカラグアが安保理に決議案を提出し、アメリカの拒否権行使により決議案否決
4月9日ニカラグアがアメリカをICJに提訴
5月10日仮保全措置命令
11月26日先決的判決
1985年1月18日アメリカが出廷拒否を宣言
1986年6月27日本案判決
7月31日アメリカが拒否権行使により判決履行を求める安保理決議案を否決(1回目)
10月28日アメリカが拒否権行使により判決履行を求める安保理決議案を否決(2回目)
11月3日国連総会の判決履行勧告決議(1回目)
1987年9月7日ニカラグアが賠償額算定をICJに申し立てる
11月11日国連総会の判決履行勧告決議(2回目)
1988年12月9日国連総会の判決履行勧告決議(3回目)
1989年12月9日国連総会の判決履行勧告決議(4回目)
1991年9月12日ニカラグアが請求取り下げをICJに通告
9月26日裁判終了命令

ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:Nicaragua Case、フランス語:Affaire Nicaragua)[注 1]は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカ提訴した国際紛争である。1986年6月27日本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。

国家間の武力紛争の合法性が裁判の場で争われることは稀であり、中でも本件のICJ判決国際法上の集団的自衛権行使のための要件や武力行使禁止原則の内容について初めて本格的な判断がなされたリーディングケースといえる判例である[10][11]。しかしニカラグアへの損害賠償などを命じたICJの判決をアメリカは履行せず、その上判決履行を求めてニカラグアが安保理に提訴するも再度アメリカの拒否権行使によって否決されたなど、本件でICJは裁判所として紛争解決の機能を果たすことができなかったとする批判もある[10]
背景1987年に撮影されたコントラの兵士たち。中米の地図。青がニカラグア。アメリカはエルサルバドル(灰)、ホンジュラス(赤)、コスタリカ(茶)も本件の関係国であるとして、これら3カ国の訴訟参加の必要性を主張した。#強制管轄受諾宣言参照。
アメリカの対中米政策「コントラ戦争」も参照

1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった[12]。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった[12]。こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる[12]ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった[12][13]

1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:149 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef