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ニイハウ島事件
第二次世界大戦, 太平洋戦争中
焼却後の西開地重徳一飛曹搭乗零式艦上戦闘機二一型, 空母飛龍戦闘機隊所属 BII-120, 昭和16年12月17日, 米国陸軍派遣隊撮影
時1941年12月7日(日本時間12月8日) - 12月13日
場所ニイハウ島, ハワイ
結果
住民が西開地を殺害、あるいは西開地の自殺
原田は自殺
他2名は逮捕
衝突した勢力
ハワイ先住民 大日本帝国海軍
指揮官
西開地重徳
ニイハウ島事件(ニイハウとうじけん、Niihau Incident または Ni'ihau Zero Incident)は、1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)に、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零式艦上戦闘機が[1]、ハワイ諸島のニイハウ島に不時着して起きた一連の出来事。 1864年以来、ハワイ諸島の中で最も西にあるニイハウ島はロビンソン家が私的に所有している。島民のほとんどはハワイ先住民で、彼らの第一言語は、他の島の住民のような英語やハワイ・クレオール英語ではなく、ハワイ語だった。他には少数の日系アメリカ人や白人の住人がいた。 当時、島にはエールマー・ロビンソンから許可を得てのみ、入ることができた。しかし、島民の友人や親類以外に許可が下りる事はほとんど無かった。ロビンソンはハーバード大学を卒業しハワイ語に堪能だった。ロビンソンはいかなる政府当局の干渉も受けず島を管理した。ロビンソンはニイハウ島から約27キロ離れたカウアイ島に住んでおり、毎週ボートでニイハウ島を訪れていた。 大日本帝国海軍の軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1人も居住していないと記されていたため、1941年(昭和16年)12月に行われた南雲機動部隊の真珠湾攻撃に際して、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の緊急着陸地として、さらにパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた[2]。これは西側の海岸が平坦な地形で滑走路として使い易く、また水深が深い為に潜水艦をギリギリまで寄せることが可能だった事が挙げられる。回収潜水艦として伊号第74潜水艦が指定され、伊74はニイハウ島近海で待機した[3]。潜水艦部隊は攻撃当日(X日)から3日後まで南雲機動部隊の指揮を受けることになった[4]。
経緯
西開地の不時着西開地重徳一飛曹 (今治市出身[5], 甲飛2期[6], 21歳), アラン・ビークマン
12月7日(日本時間12月8日)、日本海軍の空母「飛龍」(第二航空戦隊)に所属する西開地重徳(にしかいち・しげのり)一飛曹は、真珠湾攻撃の第二波攻撃に参加した[7]。オアフ島の飛行場を襲撃中に空戦に巻き込まれて行方不明となり[8]、自爆認定された[9]。実際には、西開地はニイハウ島の野原に不時着していた。