ナンシー
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この項目では、フランスの都市について説明しています。人名については「ナンシー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ナンシー市街

Nancy


行政
フランス
地域圏 (Region)グラン・テスト地域圏
(departement)ムルト=エ=モゼル県
(県庁所在地)
(arrondissement)ナンシー郡 (郡庁所在地)
小郡 (canton)4小郡庁所在地
INSEEコード54395
郵便番号54000
市長任期)マチュー・クラン(PS
2020年-2026年
自治体間連合 (fr)Communaute urbaine
du Grand Nancy
人口動態
人口104 286人
2017年
人口密度6948人/km2
住民の呼称Nanceienne, Nanceien[1]
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度41分37秒 東経6度11分05秒 / 北緯48.6936度 東経6.1846度 / 48.6936; 6.1846座標: 北緯48度41分37秒 東経6度11分05秒 / 北緯48.6936度 東経6.1846度 / 48.6936; 6.1846
標高平均:212 m
最低:188 m
最高:353 m
面積15,01km2 (1 501ha)
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公式サイト ⇒site officiel
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ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、グラン・テスト地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。
由来ナンシーのスタニスラス広場

896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。
歴史

ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世(fr)が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争(fr)中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世(fr)に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

1477年、ナンシー郊外でブルゴーニュ戦争最後の戦いであるナンシーの戦いが起こり、シャルル突進公が敗死した。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランドスタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合されたが、ナンシーはそのまま州都になった。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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