ナンシー関
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ナンシー せきナンシー関
生誕 (1962-07-07)
1962年7月7日
日本 青森県青森市
死没 (2002-06-12) 2002年6月12日(39歳没)
日本 東京都目黒区
出身校法政大学文学部第二部(夜間部)中退
職業版画家、コラムニスト
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ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、日本版画家コラムニストである。青森県青森市生まれ。法政大学文学部第二部(夜間部)中退

独特の観察眼による「テレビ批評」とその挿絵に入れた著名人の似顔絵「消しゴム版画」で社会そのものを批評していた[1]。世界初の消しゴム版画家である[2]
経歴
生い立ち

1962年青森県青森市に三人きょうだいの長女として生まれた。2歳下の妹と7歳下の弟がおり、父親は同郷のプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていた。言葉は早く、2-3歳のころには一人で絵本を読んでいた[3]。1969年、青森市立堤小学校に入学。同級生によれば性格は他の生徒より大人びて冷静だったという。手先は器用で、パラパラマンガを描いたり、いたずらとしてクラスメイトの消しゴムに文字を彫るなどしていた。小学校入学後から急に太り始めたため、心配した両親は病院を受診させたが、結果は「異常なし」だった[4]。当時の青森には民放が2局しかなく、のちにテレビについては恵まれない幼少期を送ってきたと述懐している[5]。小学生時代は「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズとアイドルの郷ひろみの熱心なファンであった。

小学校卒業後は、青森市立浦町中学校を経て、カトリック系ミッションスクールの青森明の星高等学校に進学した。この頃、『ビックリハウス』『宝島』『STUDIO VOICE』などサブカルチャー系の雑誌を読み漁り、YMOムーンライダーズのファンとなった。図工・美術の成績は小学生時代から優秀(ほとんど5)で、クロッキーデッサンを得意としていた。クラスで1週間ほど消しゴム版画が流行ったことがあったが、ナンシーの彫ったゴダイゴツイストのバンドロゴは抜群にうまく、クラスメイトたちから注文が殺到した[6]。また、クラスメイトと芸能新聞のようなものを発行したこともある。『所ジョージのオールナイトニッポン』や『ビックリハウス』に投稿をはじめ、『オールナイトニッポン』でハガキが読まれた翌日は拍手喝采で教室に迎えられた[7]。無根拠ながらも将来は東京に出ることを確信していたが、それを「憧れ」という言葉で認識すること・されることに抵抗があったという[8]
上京、「ナンシー関」デビュー

高校卒業後、上京すると高田馬場早稲田予備校に通い浪人生活を始めた。高校3年の正月に始まったラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』に傾倒し、放送がある木曜の夜はなるべく出かけず、放送開始とともにラジカセの録音ボタンを押し、CMをとばしてカセットテープに録音したものを、次週の放送まで7-8回繰り返して聴いていた[9]。この番組にもハガキを投稿、番組コーナーで採用されている。ナンシーの旧友は、彼女にとってたけしのラジオは宗教に近かったと証言している[10]

1982年、法政大学第二文学部日本文学科に入学。同年11月には広告批評主宰の「広告学校」にも入学したが、大学にはほとんど行かず、広告学校も仕事を紹介してくれるわけでないと知って通わなくなり、親からの仕送りと軽作業のバイト代で毎日漫然とテレビを見てすごした[11]。翌年に妹が進学のため上京、95年まで同居した。この頃、ひまつぶしに編み物や粘土細工を作り、高校時代流行った消しゴム版画を再び彫り始めた。モチーフはカネテツのテッちゃんや花登筺の小説「あかんたれ 土性っ骨」の丁稚の少年であり、丁稚の版画は10種類作りそれぞれ「たたきあげ」「おでかけ」などの文字を入れた。消しゴム版画の人物にキャプションを添える特徴的なスタイルはこの頃既にあった[12]。広告学校で知り合った友人(後のえのきどいちろうの妻)の手帳に押したところ、えのきどの目に留まり、ライター事務所「シュワッチ」に籍を置くこととなった。えのきどは、ナンシーを『ホットドッグ・プレス』の新人編集者のいとうせいこうに紹介するとともに、ペンネームの命名を依頼した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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