ナワウィー
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「ヤフヤー・ブン・シャラフ・(アン)ナワウィー」の名前をアラビア文字で装飾的に書いた書道作品

アブ・ザカリア・ヤフヤー・ブン・シャラフ・アル=ナワウィー(アラビア語: ??? ????? ???? ?? ??? ??????‎、1233年 - 1277年)は、13世紀シリアイスラーム法学者、ハディース学者[1]ダマスクスに近いナワー村に生まれ、18歳よりダマスクスで学究の日々を送った(#生涯)。ナワウィーは、スンナ派シャーフィイー派の学統に連なり、同学派の見解に沿った法的判断の手引書の著作などで知られるが、40あまりの伝承を集めたナワウィーの注解付きハディース集『アルバイーン・ナワウィーヤ(英語版)』は学派の違いを超えて広くムスリムに受容されている(#著作)。
生涯.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}『ヒズブル・アーリフ』??? ??????‎ というナワウィーの祈祷書。1739年制作の装飾写本メトロポリタン美術館蔵。

「ナワウィー」という呼び名は出身地の村の名前から派生したニスバで、クンヤとイスムとナサブは、アブー・ザカリーヤー・ヤフヤー・ブン・シャラフという[1][2]。ナワウィーにはムヒッディーンのラカブがあり、敬意や尊敬を込めてムヒッディーン・ナワウィー[3]、イマーム・ナワウィー[2]と呼ばれることもある。

イブン・アッタール(アラビア語版)(1256-1324)というナワウィーの弟子で、ナワウィーより一世代下のダマスクスのウラマーが、ナワウィーの伝記(Tu?fat a?-??lib?n f? tarjamat al-’im?m Mu?yidd?n)を書いている[4]。イブン・アッタールによると、ナワウィーはヒジュラ暦631年ムハッラム月(グレゴリオ暦1233年10月)に、ダマスカスの南にあるナワー村で生まれた[4]

ナワウィーは18歳のときダマスクスへ行き、以後、そこで学究の日々を送った[1]。1253年にはメッカへの巡礼(ハッジ)を果たした[1]。以後、15年間ほどの間、ムフティーカーディーなどの公職に就くことなく市井のウラマーであったが、1267年にアブー・シャーマ Abu Sh?ma という人物の跡を継いでアシュラフィーヤ・ハディース学院(アラビア語版)の長になった[1]

旱魃の続いたある年、ナワウィーはダマスクスの街を代表して、マムルーク朝スルターンルクヌッディーン・バイバルスに税負担の軽減を求めた[3]。バイバルスはこれに怒り、ナワウィーをダマスクスから追放させた[3]。バイバルスはその後まもなくして毒殺され、ナワウィーはダマスクスに戻った。

ナワウィーはヒジュラ暦676年ラジャブ月24日の水曜日に、故郷のナワー村の実家で亡くなった[1][2][4]。没年はグレゴリオ暦では1277年にあたる[2]。イブン・アッタールなど複数の史料には、ナワウィーが亡くなったという報せが翌木曜日中にダマスクスに届き、さらに翌日のウマイヤ・モスクにおける金曜礼拝では深い悲しみの中、ナワウィーに祈りが捧げられたことが記載されている[4]
著作ダブリンチェスター・ビーティ図書館が所蔵する『アルバイーン・ナワウィーヤ』の手写本の一つ

ナワウィーの著作は少なくとも50点以上はある。代表的なものの一つ、『ミンハージュル・ターリビーン』(Minhaj al-Talibin, ????? ???????? ????? ??????? ?? ??? ?????? ???????‎)は、シャーフィイー派の見解に沿ったイスラーム法学入門書の古典とされている[2]

『マジュムー・シャルフル・ムハッザブ』(al-Majmu' sharh al-Muhadhdhab ??????? ??? ??????‎)は、シャーフィイー派の見解に基づいて法的判断を行うための手引書であり、1899年にフランス語訳つき校定本が出版されている[1]

『リヤード・サーリヒーン』(Riyadh as-Saaliheen, ???? ????????‎, 公正の庭(英語版))は、テーマ別に聖典クルアーンの章句を引用し、それに関連するハディースを示し、注釈を加えた実用的な宗教書である[5]

『アルバイーン・ナワウィーヤ(英語版)』(al-arba??n al-nawawiyya, ???????? ???????‎)は、40あまりの伝承を集めた注解付きハディース集である[1]


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