この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト"
ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト
Napoleon Joseph Charles Paul Bonaparte
称号モンフォール公
敬称プロン=プロン
出生 (1822-09-09) 1822年9月9日
オーストリア帝国、トリエステ
死去 (1891-03-17) 1891年3月17日(68歳没)
イタリア王国、ローマ
配偶者マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア
子女ヴィクトル
ルイ
マリー・レティシア
家名ボナパルト家
父親ジェローム・ボナパルト
母親カタリーナ・フォン・ヴュルテンベルク
テンプレートを表示
ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(フランス語: Napoleon Joseph Charles Paul Bonaparte, 1822年9月9日 - 1891年3月17日)は、フランス第二帝政の政治家、皇族。ナポレオン1世の末弟ジェロームの息子でマチルドの弟。通称プランス・ナポレオン(ナポレオン公、Prince Napoleon)あるいはプロン=プロン(Plon-Plon)。父の名を取ってナポレオン・ジェローム(Napoleon Jerome)とも呼ばれる。従兄のナポレオン3世とは水と油の性格で、たびたび対立した。 伯父ナポレオン1世死去の翌1822年生まれ。1851年のナポレオン3世のクーデターには共和派の立場から反対したが、翌1852年に成功して第二帝政が始まると、一転して次の皇帝の座を狙うようになった(当時ナポレオン3世は子がいなかった)。 1853年に始まったクリミア戦争では、指揮官の1人として派遣されたが、警告を無視して帰国した。しかし、1856年に皇太子のナポレオン・ウジェーヌ・ルイ(ナポレオン4世)が誕生すると皇位継承の望みを打ち砕かれ、かつては交際を考えていた仲にもかかわらずウジェニー皇后を憎むようになった。1858年に植民地大臣に任命され、ナポレオン3世の意向を受けて1859年にサルデーニャ王(後のイタリア王)ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の16歳の娘マリー・クロティルドと政略結婚をする。2人がトリノで結婚式を挙げると、フランスはただちにサルデーニャと対オーストリア軍事協定を結び、イタリア統一戦争に協力した。 1870年に帝政が崩壊すると、イギリスに亡命していたナポレオン3世とともに帝政復活を画策する。1891年没。 サルデーニャ王女マリー・クロティルドとの間に3子を儲けた。
生涯
子女
ヴィクトル(1862年 - 1926年) - 「ナポレオン5世」(ナポレオン公)
ルイ(1864年 - 1932年)
マリー・レティシア(1866年 - 1926年) - 1888年、叔父のアオスタ公アメデーオと結婚