ナポリ革命
[Wikipedia|▼Menu]

ナポリ革命

1820年7月1日 - 1821年3月24日
場所両シチリア王国ナポリ
結果反乱は鎮圧され、首謀者は処刑された。憲法は停止し、議会は廃止された。

衝突した勢力
ナポリの民衆 両シチリア王国
支援:
スペイン王国
オーストリア帝国
指揮官
ルイージ・ミニキーニ
フロレスターノ・ペペ
グリエルモ・ペペ
ミケーレ・モレッリ
ジュゼッペ・シルヴァティフェルディナンド1世 (両シチリア王)
部隊
ナポリの反乱者両シチリア王国軍(英語版)
戦力
不明不明
被害者数
不明不明

ナポリ革命(ナポリかくめい、イタリア語: Rivoluzione Napoli)は、1820年から1821年の間におもにナポリサレルノで発生した、立憲と議会設置を求めた民衆反乱である。カルボナリが関与し、1815年から1870年にかけての「イタリア統一運動」の中で最も早期に起きた出来事である。ナポリ反乱、ナポリ暴動とも呼ばれる。
革命
背景

かつてともにスペイン系ブルボン朝の支配下に置かれていたナポリ王国シチリア王国は、1815年ウィーン会議を経て正式に連合し、シチリア・ブルボン朝による両シチリア王国になった。2つの王国は12世紀から13世紀の間は1つの王国だった(ノルマン人が11世紀に建国した)が、1282年のシチリアの晩祷の反乱で2つに分かれた。

ナポレオン体制下のナポリ王国では封建制が撤廃されて、近代的な官僚制度の整備がすすめられ、不徹底で問題を多く残したが農民に土地を分配する土地改革も行われた。しかしながら両シチリア王国の誕生によってシチリア・ブルボン朝が君臨するようになると、それら近代的な政策は中途半端に終わってしまい代わってより封建的な社会へと逆戻りしてしまう。結果、民衆の反発を招いていた。

そんな中、1820年スペインではスペイン立憲革命が発生。蜂起した革命派軍人はスペイン王フェルナンド7世1812年憲法の復活を承諾させた。これが立憲革命を求めるカルボナリを触発させることとなる。
革命初期オーストリア帝国軍に護衛されながらナポリに入城するフェルディナンド1世

1820年、スペイン立憲革命に触発されたカルボナリの党員ルイージ・ミニキーニ司祭が両シチリア王国軍騎兵連隊を率いて蜂起を決意した[1]。これにグリエルモ・ペペ将軍率いる両シチリア王国軍の師団と、その弟フロレスターノ・ペペが加わった[1]。次いで治安判事のジュスティーノ・フォルトゥナート(イタリア語版)[2]、詩人のドメニコ・シメオーネ(イタリア語版)がミニキーニに協力し、蜂起は軍単独によるものから民衆反乱へと様相を変化させた。

両シチリア王国ノーラにおけるカルボナリ党の責任者であったミケーレ・モレッリは、ミニキーニの蜂起を支援することを決める[3]。そして彼自身の部隊をその蜂起に協力させ、結果ジュゼッペ・シルヴァティなどが蜂起に参加することになった[1][4]

1820年7月1日、合流したミニキーニとモレッリの一団(男性約130名、軍人将校約20名)はまず立憲革命や蜂起を望んでいた民衆を反乱に加える為、「自由と憲法万歳」を叫びながら農村地帯を渡り歩く。ノーラから目的地をアヴェッリーノにして一団は農村や山村を巡ったが、しかし期待していたほどの群衆の熱狂に遭遇することはなく、蜂起参加者もほとんど募ることはできなかった[5]7月2日にはモンテフォルテ・イルピーノに入り、ミニキールは市民に戦争や君主制の打倒ではなくスペイン立憲革命を参考にした憲法の樹立が目的であると宣言した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef