ナポラ
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ナポラのウィーン=テレジアンウム校の正面。三名の生徒が土曜日の放課後に外出する光景をとらえた一葉。ナポラの図書館蔵書印

ナポラ (Napola) とは、1933年ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、中等教育レベルの寄宿学校ギムナジウム)である。卒業生には大学入学資格が与えられた。

公式名称はドイツ語で Nationalpolitische Erziehungsanstalt (NPEA) であり、ナポラとは Nationalpolitische Lehranstalt の太文字部分を読んだものである(Erziehungsanstalt, Lehranstalt はいずれも「教育施設」に当たる語で、おおむね「学校」を意味する)。訳語としては「国家政治教育学校」[1]や「国民政治教育施設」[2]、「国家政治教育施設」[3]、「国家教育舎」[4]などがある。
目的

ナポラの目的とするところは心身共に民族と国家に献身するナチス党員を育成することにある。生徒は未来の指導者世代を形成することが求められた。しかし、アドルフ・ヒトラー学校生徒とは異なり、職業選択の自由を保持していた。
沿革

1933年最初の三校が教育大臣ベルンハルト・ルストの主管する国立の学校として設立された。

1936年から親衛隊大将アウグスト・ハイスマイヤーがナポラ監督官となる。1939年から1940年にかけてナポラの主管は親衛隊のハイスマイヤー本部 (Dienststelle Heismeyer) に移行される。 これに伴い、ナポラは親衛隊の直接的な影響下に置かれ、ハイスマイヤーは教職員に親衛隊への入隊を迫った。また、生徒や教職員に親衛隊の制服・階級を導入することを試みた。

1941年にはオーストリアを含む全ドイツに6000名の生徒が30校に学んだ。このうち2校が女子校であった。終戦までに43校に増大した。
編成・組織ナポラでの物理授業光景、弾道学と空気力学の模型が写っている

オラニエンシュタイン校を例として説明すると、同校はディーツ (Diez)に所在、1919年に廃止されたプロイセン王国陸軍幼年学校 (Koniglich-Preusische Kadettenanstalt) の伝統を継承、校内で青色の肩章を付けたオリーブ色の制服を着用した。

生徒はユンクマン (Jungmann、新人または新兵の意味) と称された。休暇中も帰郷先のヒトラーユーゲント組織で活動義務があるので外出着はヒトラーユーゲントの制服を着用した。

学校は8学年に分かれた。

ナポラは形式上ナチス党の突撃隊に属していたので、校長は突撃隊員であったが、開戦に伴い教員も変化し、1942年には突撃隊に属する教員はいなくなり、正規の授業と並んで軍事教練に重点が置かれたので、元教員であったが、戦傷のために現役復帰できない国防軍将校が授業を担当した。

戦争が長くなれば、なるほど年かさの生徒は国防軍や武装親衛隊に志願し、ナポラは国防軍や武装親衛隊の将校予備軍の様相を呈した。

なお、ナポラに入所した少年を主人公にした映画「エリート養成機関 ナポラ」(2004年、ドイツ 原題:NAPOLA/BEFORE THE FALL )が公開されている。
所在地

男子生徒

No.都市公式名称州名(当時)開校年月日転用前の施設
1プレーンNPEA プレーン校
プロイセン州シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県1933年5月1日国立教育施設・プロイセン王立幼年学校
2ポツダムNPEA ポツダム校プロイセン州ブランデンブルク県1933年5月26日戦争孤児院(Groses Militarwaisenhaus
3ケスリーンNPEA ケスリーン校プロイセン州ポンメルン県1933年7月15日国立教育施設
4ベルリン=シュパンダウNPEA ベルリン=シュパンダウ校ベルリン市1934年1月30日プロイセン体育大学
5ナウムブルクNPEA ナウムブルク校プロイセン州ザクセン県1934年3月15日国立教育施設・プロイセン王立幼年学校
6イルフェルトNPEA イルフェルト校プロイセン州ハノーファー県→ザクセン県1934年4月20日修道院学校
7ヴァールシュタットNPEA ヴァールシュタット校プロイセン州オーバーシュレージエン県1934年4月9日国立教育施設
8ディーツNPEA オラニーンシュタイン校プロイセン州ヘッセン=ナッサウ県1934年幼年学校
9スツームNPEA スツーム校プロイセン州東プロイセン県→ダンツィヒ=西プロイセン1934年10月1日兵営
10バレンシュテットNPEA アンハルト校アンハルト州1934年5月市立ギムナジウム
11ドレスデン=クロッチェNPEA ドレスデン=クロッチェ校ザクセン州1. April 1934州立農業学校
12バックナンクNPEA バックナンク校ヴュルテンベルク州1934年5月2日師範学校
13ベンスブルクNPEA ベンスブルク校プロイセン州ラインラント県1935年6月1日プロイセン王立幼年学校
14シュルプフォルタNPEA シュルプフォルタ校プロイセン州ザクセン県1935年7月1日寄宿制ギムナジウム(Landessschule zur Pforte)
15ロットワイルNPEA ロットワイル校ヴュルテンベルク州1936年4月1日カトリック系師範学校
16ノイツェレNPEA ノイツェレ校プロイセン州ブランデンブルク県1934年(1938年閉鎖)養老院、少女教養学校
17ウィーン=テレジアンウムNPEA ウィーン=テレジアンウム校ウィーン市1939年3月13日大学
18ウィーン=ブライテンゼーNPEA ウィーン=ブライテンゼー校ウィーン市1939年3月13日国立教育施設 (Kommandogebaude Theodor Korner)
19トライスキルヒェンNPEA トライスキルヒェン校ニーダードナウ州(オーストリア1939年3月13日国立教育施設 (オーストリア)
20プロシュコヴィッツNPEA プロシュコヴィッツ校ズデーテンラント1940年10月10日
21ライゼンNPEA ヴァルテラント校ヴァルテラント1940年城
22ローベンNPEA ローベン校オーバーシュレージエン州1941年4月1日言語矯正学校
23プットブスNPEA リューゲン校プロイセン州ポンメルン県1941年9月1日教育大学
24ライヒェナウNPEA ライヒェナウ校バーデン州1941年介護療養施設
25ザンクト・ヴェンデルNPEA ザンクト・ヴェンデル校ザールラント州1941年9月1日神言会寄宿学校
26ヴァイアーホーフNPEA ドナースベルク校バイエルン州(プファルツ)1941年高等学校?Gau-Oberschule“
27ザンクト・パウル/ラヴァントタルNPEA ケルンテン・シュパンハイム校ケルンテン州(オーストリア)1941年ベネディクト派修道院
28フォラウNPEA フォラウ校シュタイアーマルク州(オーストリア)1943年1月アウグスティヌス派修道院
29ゼッカウNPEA ゼッカウ校シュタイアーマルク州(オーストリア)1941年養老院
30ルーフアッハNPEA ルーフアッハ校アルザス地方(フランス)1940年10月介護施設
31ハーゼリューネNPEA エムスラント校ハノーファー地方1941年10月17日修道院学校
32ノイボイエルンNPEA ノイボイエルン校バイエルン州1942年5月城と州立学校寄宿舎
33ザンクト・ファイトNPEA ザンクト・ファイト校スロヴェニア1942年7月司祭養成所
34モクリッツNPEA モクリッツ校シュタイアーマルク州(現・スロヴェニアのモクリチェ)1942年城
35アッカーンNPEA アッカーンバーデン州1943年8月介護療養施設
36クッテンベルクNPEA ベーメン校(保護領)1944年4月22日イエズス会学院、兵営
37ラウドニッツ・アン・デア・エルベ(ロウドニツェ・ナト・ラベム)NPEA ラウドニッツ校(保護領)1944年7月城
38ランバッハオーバードナウ州1941年ベネディクト会修道院、養老院

典拠: Harald Scholz: NS-Ausleseschulen
著名なナポラ出身者

ハーディ・クリューガー ハリウッド映画俳優

テオ・ゾンマー(de:Theo Sommer) 日本にも詳しい国際政治ジャーナリスト

エーリヒ・ハルトマン ドイツ空軍の撃墜王の一人

ロタール・ギュンター・ブーフハイム 映画「Uボート」の原作者 

脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 日和聡子. “生きたすべての生命の記録につつまれて”. Book bang. 2021年4月25日閲覧。
^ 椎名万吉「資料紹介 ナチス・ドイツの『帝国文部省官報』」『教育学研究』第42巻第1号、1957年、80頁、2021年4月25日閲覧。 
^ 川瀬泰史「 ⇒ナチスの「近代性」:「修正主義派」のナチス近代化論の検討」『立教経済学研究』第47巻第1号、1993年、80頁、2021年4月25日閲覧。


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