ナボニドゥス
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ナボニドゥス
バビロン
月の神に祈るナボニドゥスの像
在位紀元前555年 - 紀元前539年

死去紀元前539年

子女ベルシャザル
母親アッダ・グッピ(英語版)
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ナボニドゥス(Nabonidus, ? - 紀元前539年)は新バビロニア最後の王(在位:紀元前555年 - 紀元前539年)。アラム系であると言われ、アッカド語では名前はナブー・ナイド(Nabu-n?'id)と表記される。目次

1 歴史

2 出自

3 治世

3.1 功績

3.2 宗教的信条

3.3 ナボニドゥスのタイマ滞在


4 ペルシアによるバビロニア征服

5 その死

6 参考文献

7 関連項目

8 脚注

歴史

現代のナボニドゥスの治世への認識は、彼のバビロンの王としての治世よりもはるかに後代の、特にペルシア人とギリシア人による記述に負うところが大きい。その結果、ナボニドゥスは近代・現代の学問では否定的な意味で描かれることが多い。しかしながら、証拠の蓄積と現存する史料の再評価により、ナボニドゥスや彼の治世における出来事に対する評価は、この数十年で著しく変わってきた[1]
出自 月神シンの神殿の修復に関するナボニドスの円筒形碑文。大英博物館。

ナボニドゥスの経歴は明らかではない。彼は自らの碑文の中で、自分は取るに足らない出自だと述べている[2]。同様に、長生きした彼の母アッダ・グッピ(英語版)は、おそらくハランにある月神シンの神殿と関係があるが、彼女の碑文の中でも彼女の家の経歴を語らない。彼がアッシリア人の血を引くのではないかとする論点が2つある。1つは、ナボニドゥスの王としてのプロパガンダの中で、新アッシリア帝国の最後の偉大な王、アッシュールバニパルへ繰り返し言及することである。もう1つは、彼がハランの出身であることと、ハランに対する彼の特別な関心である。ハランアッシリアの都市であるとともに、新アッシリア帝国の首都ニネヴェ陥落後は、最後の拠点となった[3][4]。だが、この説には難点がある。ナボニドゥスのプロパガンダは、彼以前の王たちのものとほとんど違わない上に、彼の跡を継いだペルシア帝国キュロス大王もまた、キュロスの円筒形碑文の中でアッシュールバニパルに言及するからである[5]。ナボニドゥスは明らかに、彼以前の王家カルデア王朝(ネブカドネザル2世が有名)に属していなかった。彼は紀元前556年、前任の若い王、ラバシ・マルドゥク政権を覆して王位に就いた。
治世

相次いで王位が変わる新バビロニアの混乱状態を収めて新バビロニアの王座についた。特に勢力を増していた神官達に対抗するために神殿の人事に介入し、監督官を派遣してこれの統制を図った。また月神シンを祭る神殿を多数建造したが、マルドゥクを主神とするバビロニア人の反応は悪かったようである。ナボニドゥスはバビロンの過去に興味を持ち、古代の建築物を発掘し、彼の考古学上の発見を博物館に展示した。最も古い記述では、彼は王家の変人として表現されている。ナボニドゥスはおそらく、他の全ての神々に優先して月神シンを崇拝し、ハランにあるシンの神殿に特別な奉納を払った。その神殿は彼の母が神官であったところで、このように彼はバビロニアの主神マルドゥクを軽んじた。これらの宗教改革が生み出した緊張により、彼はその治世の初期の頃に首都を去り、アラビアにある砂漠のオアシス、タイマ(都市)(英語版)へと逃れた。彼は紀元前553年にシリアへ遠征を行い、次いで紀元前552年(異説あり)タイマへと遠征し、以後10年前後にわたってそこに残留した。彼が戻ってきたのは何年も後になってのことである。長期間本国を留守にしていたためその間の国内統治は皇太子ベルシャザルに一任された。ただしベルシャザルはバビロニア王を名乗る事は許されず、神殿への奉納はナボニドゥスの名で行われ、祭礼に関しても独断で行う権限を持たないなど、ナボニドゥスの影響力はかなりの程度確保された。短命王が多い新バビロニアにあって、長期間の在位に成功した王であったが、この時期に急拡大を遂げていたアケメネス朝ペルシアとの戦いによって王座を追われる事になる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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