ナホトカ
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この項目では、ロシアの都市について説明しています。石油タンカーについては「ナホトカ号重油流出事故」をご覧ください。

ナホトカ
Находка


市旗市章

位置

ロシア連邦、沿海地方の位置
.mw-parser-output .mapframe-multi-container>label:first-of-type{clear:both}.mw-parser-output .mapframe-multi-container a.mw-kartographer-container.floatright,.mw-parser-output .mapframe-multi-container a.mw-kartographer-container.floatleft,.mw-parser-output .mapframe-multi-container div.mw-kartographer-container.tright,.mw-parser-output .mapframe-multi-container div.mw-kartographer-container.tleft{padding:0 0 0 0;margin:0 0 0 0}Show ナホトカShow 中域地図Show 広域地図
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度49分 東経132度52分 / 北緯42.817度 東経132.867度 / 42.817; 132.867
行政
ロシア
 連邦管区極東連邦管区
 行政区画 沿海地方
 市ナホトカ
地理
面積 
  市域325,9 [1] km2
人口
人口(2021年現在)
  市域139,931人
  備考[2]
その他
等時帯ウラジオストク時間 (UTC+10)
郵便番号690890, 692900?692906, 692909?692911, 692913, 692914, 692916?692924, 692926, 692928?692930, 692939?692941, 692943, 692952?692954, 692956
市外局番+7 4236
自治体コード (OKATO) : 05 414 000 000
公式ウェブサイト : ⇒www.nakhodka-city.ru
ナホトカ港(ロシア語版)ナホトカ湾
左の地域がナホトカ市。右にヴォストーチヌイ港。

ナホトカ(ロシア語: Находка、ラテン文字転写:Nakhodka)は、ロシア連邦極東部沿海地方に属している商港都市。人口は約13万人(2021年)。日本海の北西部にあるナホトカ湾に面し、日本との関係が深い。清朝時代の名称は?溝?であった[3]
歴史

現在の街の領域には、ヤンコフスキーの考古学的文化に属する鉄器時代の集落が発見されている。密集した貝殻の堆積は、海沿いに数百メートルに及ぶ長い壁を形成している。白鳥の湖(リベジーナエ・オーゼロ)、ナホトカ湾、ツングース湾、透明湾(プロズラーチナヤ・ブーフト)などの岸、兄弟丘(ブラート・ソープカ)の下、甥丘(プレミャーンニク・ソープカ)の洞窟内には、石器時代・鉄器時代の人々の集落跡が発見されているが、現在はほとんど、または完全に破壊されている[4]
19世紀
英国船と「ゴーネット湾」

1855年8月21日、タタール湾(間宮海峡)から日本に向かう途中にピョートル大帝湾を探検したイギリス船「バラクーダ」がナホトカ湾に到達した。以前からこの名無しの湾をイギリス人たちは「ゴーネット湾」と呼んでいた。航海から戻ってきた「バラクーダ」の将校、ジョン・トロンソンは1859年に本を出版し、「8月21日の早朝、私たちはゴーネット湾に到達した。風が急に出てきたので錨を下ろした。風に閉ざされた湾内に、砂浜沿いにとても肥沃な土地が広がっている。湾の奥にはタタール人の家がいくつか見える…」[5]と記している。
ムラヴィヨフによる命名

1859年6月17日、東シベリア提督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーを伴った蒸気コルベット「アメリカ」は、ロシアの沿岸に沿って航行していたところ、陸を視認した。岩だらけの岬を迂回して、船は名無しの湾内に入った。濃霧で視界は悪く、雨は霧雨になった。船はゆっくりと湾の奥へと進み、岸から2マイルほど離れた、姉妹丘(ロシア語版)(ソープカ・シストラー)から遠くない位置で錨を下ろした。翌日、航海士のクラシリニコフは航海日誌に「朝6時に抜錨し、海岸の確認に出航した。窪みを視認し、湾だと確認した。提督閣下により、湾はナホトカと命名された」という歴史的記述を残した[6]。なお「ナホトカ」はロシア語で「発見」・「掘り出し物」の意味である[7]
移住の試み

1864年春、下士官のゲラシモフ・ミハイル・ナウモビッチと4人の兵士からなる、軍事水路学の役職がアスターフィエフ岬(ロシア語版)に設けられ、1860年代末には30人にまで増やされた。彼ら水路学者たちは毎日気象観測を行い、日誌に記録していた[8]

1864年8月、ニコラエフスク・ナ・アムーレからナホトカに移住した9つの家族と7人の独身者は、サハリンでの重労働ののちに釈放され、そのうち17人がスチャン川上流でアレクサンドロフカ集落を設けた。4家族は軍事基地のそばで定住した。1865年春、アムール川からナホトカに農民26人が移住した。彼らは8月までナホトカで暮らし、そのあとスチャン川に移住、ウラジミフカ集落を設けた。1865年5月3日、彼らがナホトカで暮らしていたとき、彼らの1人が産んだ息子のイヴァン・エフィーモビッチ・クラーエフが、最初のナホトカっ子となった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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