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やノートページでの議論にご協力ください。ナホトカ航路は、日本とソビエト連邦(現:ロシア)のナホトカ港を連絡していた航路である。 横浜港とソビエト連邦のナホトカ港 ナホトカ航路の歴史は、シベリア鉄道の歴史と密接に関係している。ソビエト連邦時代の1936年、シベリア鉄道のウラジオストク-ナホトカ支線が完成し、1940年にナホトカ港の拡張工事が始まり、太平洋戦争による中断を挟んで1946年に第一期工事が完了した。1950年に市の地位を得て、その後も拡張を続けた。そして、ナホトカは、ソビエト太平洋艦隊の軍港都市として外国人の立ち入りを禁じたウラジオストクに代わり、ソビエト連邦の極東貿易拠点として発展した。 1956年、日ソ共同宣言により日ソ間の国交が回復されナホトカ港が日本との貿易港となり、1958年に敦賀港との間に貨物定期航路が開設された。1961年には、横浜港との間に旅客船の定期航路が再開され、極東海運(FESCO)が就航した。この旅客航路が一般的にナホトカ航路と呼ばれた。1967年には日本国総領事館がナホトカに設置されている。 ナホトカ航路は、ソビエト連邦や共産圏諸国からの日本との往来や日本からヨーロッパへ向かう旅行客の重要な交通手段であった。同時に貨物もこの航路を利用した。ナホトカ航路とシベリア鉄道を利用してモスクワへ行く乗客は、シベリア鉄道の支線を利用して本線に合流する列車でハバロフスクまで行き、そこでウラジオストク発のモスクワ行列車に乗り換えるスケジュールが組まれていた。 ナホトカ航路は、太平洋戦争後、シベリアに抑留された日本軍捕虜の帰国に際して多くの抑留者がこの港から故国日本へ帰国した。また、ナホトカ港の工事にはシベリアで抑留された日本兵捕虜も従事している。 1980年代、横浜港の定期旅客航路は、ソビエト連邦の極東海運(FESCO)が運行するナホトカ航路のみであったが、1992年、それもソビエト連邦の崩壊とともに廃止された。 ソビエト連邦の国営企業である極東海運(FESCO)が、バイカル号、ハバロフスク号、トルクメニア号の三隻を就航させ、夏季は週1便、冬季は月1・2便を運航していた。横浜・ナホトカ間の所要時間は、52時間、2泊3日を要した。 航路は、横浜港大桟橋から東京湾を出て太平洋を本州沿いに北上、津軽海峡を2日目の夜半に通過し日本海を西へ横断してナホトカ港へ至るルートだった。
概要
ナホトカ航路の歴史
ナホトカ航路のスケジュール
運行スケジュール
横浜港大桟橋11時発(1日目)、本州沿いに北上、夜半に津軽海峡(2日目)、ナホトカ港(3日目)に16時着[1]
1970年の大阪万国博覧会開催中は、バイカル号が5月から8月、Grigori Ordjonikidze号が3月から9月、Priamurye号が3月から6月就航していた。[2]