ナバテア王国
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ナバテア王国
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紀元前168年?106年


ナバテアの位置ナバテア王国の最大版図
首都ペトラ
言語ナバテア・アラム語(英語版)(公用語
ナバテア・アラビア語(英語版)(母語
宗教アラビア神話
政府君主制

 ? 168?144 BCアレタス1世
 ? 140?120 BCラベル1世
 ? 120?96 BCアレタス2世
 ? 96?86 BCオボダス1世
 ? 86?62 BCアレタス3世
 ? 62?59 BCオボダス2世
 ? 59?30 BCマリシャス1世
 ? 30?9 BCオボダス3世
 ? 9 BC? 40 ADアレタス4世
歴史・時代古代
 ? 創立紀元前168年
 ? オボダス1世がハスモン朝の侵略を撃退紀元前90年
 ? ローマ帝国による征服106年
面積200,000 km2 (77,220 sq mi)
通貨ナバテアの硬貨鋳造(英語版)
現在 ヨルダン
シリア
サウジアラビア
 エジプト
イスラエル
パレスチナ

ナバテア王国は、紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人(英語版)の王国。元来ペトラ周辺を拠点に活動していた遊牧民であったナバテア人はキャラバン貿易によって莫大な富を形成し、ペトラに先住していたエドム人を排除して定住生活を営むようになった。紀元前168年に建国され[1]、キャラバン貿易の商隊路に沿う形で領土を広げていった。紀元前63年ハスモン朝イスラエルの内戦に介入するが、共和政ローマ介入によって最終的にローマ軍にペトラ目前まで攻め込まれ、ローマの属国となった。その後、アラビア半島西を通る交易ルートは紅海を通る海上ルートが主流になっていったためペトラの商業都市としての重要性が低下し、その衰退の勢いを止めることができないまま、106年にローマのアラビア・ペトラエア属州に組み込まれて消滅した。

交易の要衝に位置していたこともあり、ナバテア王国は周辺国家との交流が盛んであったと考えられており、当時のペトラは多数の外国人が居住する国際都市であったと考えられている。王国の収入は交易による関税収入が主であり、国民の多くは隊商活動に従事していたと考えられており、そのため王政ではあったものの商業貴族の権力が強かったとされる。国境を接するハスモン朝ローマ帝国アッシリア古代エジプトなどの周辺諸国からの文化的、宗教的影響を受けた。権力の誇示のために作られた岩窟墓であるエル・カズネを含むナバテア王国の遺跡群は世界遺産に指定されている。
起源

ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、放牧盗賊稼業ラクダを利用した貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していた[2]。彼らは当初アラム人に起源を持つ人々であると考えられていたがその説は否定されており、言語や宗教などの証拠からアラビア人の一部族であることが確認されている[3]。彼らが北アラビアに現れる以前のさらなる起源は知られておらず、南アラビアのイエメンやアラビア半島東海岸、ヒジャーズ地方などさまざまな出身地の仮説が立てられている。その名前の類似性から、アッシリア王アッシュールバニパルに打ち破られたNabaiti族や旧約聖書に出てくるイシュマエルの子ネバヨテ(Nebaioth)との誤った関連付けがしばしば行われる[4]

ナバテア人は文字を持っていたが自身の歴史を書き残しておらず、ナバテアへの言及は紀元前30年頃にナバテアに住んだ古代ギリシアの歴史家シケリアのディオドロスによるものが最古である。ディオドロスは彼の時代からさらに300年前の情報を収集しており、王国成立前の紀元前312年にナバテア人に対して行われたアンティゴノス1世による襲撃の記録を残している。それによれば、紀元前323年のアレクサンドロス3世の死後のディアドコイ戦争において、アンティゴノス1世レバント地方を征服してペトラの北方までその勢力を伸ばしていた。ナバテアは当時からキャラバン貿易の成功により多大な富を築いており、ナバテア人はアンティゴノス1世の略奪のターゲットとなった。しかしながらギリシア軍による3度の襲撃はいずれもギリシア側に損害を出して失敗に終わり、その後アンティゴノスは他の重要案件に対応するためにアラブ地方から手を引いたとされる[4]。このディアドコイ戦争における対立に乗じ、ナバテア人はエドム人の領域を超えて自身の支配圏を広げていった[5]

紀元前4世紀前後には1万人弱だったナバテア人の人口は紀元前2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになる。この頃のナバテア人はを連れて遊牧していたことからナバテア人はアラブ史上初の馬を導入した民族であるとされ、ナバテア人は騎馬部隊によって商隊の護衛を行うことで交易の安全を確保していた[2]。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバテア人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、紀元前168年にナバテア王国が誕生した。初代の王はアレタス1世[1]

ペトラの遺跡

ナジブ砂漠のシヴィタの教会の廃墟

ネゲヴアヴダト神殿

ナバテア人をルーツに持つBdoul族の人たち

歴史古代中東の交易路。ペトラはキャラバン隊が運んできた香辛料がガザの港からヨーロッパへ運ばれるまでの最後の逗留地であった。

もともと馬を使った貿易を行っていたナバテア人の定住により、シルクロードの通商上の要所でもあったペトラは、隊商都市として繁栄を極めた。優れた灌漑・貯水機能を有し、砂漠の都市にもかかわらず水に不自由することは無かったという。交易により巨万の富を築いたナバテア王国はペトラからエドム人を排除して領域の支配を固め、一方で超大国であったローマ帝国とは対立を避けることで国を安定させた[6]。初代王のアレタス1世の時代には既に貨幣の鋳造が始まっており、広範囲な経済的、政治的自由を謳歌していた[4]

建国当初から近隣のハスモン朝とは友好関係にあり、セレウコス朝との対立においては同盟を結んでいたが、時代が下るにつれて敵対していった。ヨーロッパに向かうキャラバン貿易の交易路の終着点がガザの港であったため、ガザではナバテア人が強い影響力を持っていたが、プトレマイオス朝と抗争していたハスモン朝の王アレクサンドロス・ヤンナイオスは、紀元前100年頃にガザがイスラエルよりもエジプトに協力的であったとの理由でガザを包囲した。ガザはヤンナイオスに対して降伏し、ヤンナイオスはさらに領土拡大のための軍事作戦を開始してダマスカスへの道沿いにモアブ北部やギレアド、そしてナバテア王国領のトランスヨルダン北部を占領していった[4]。このヤンナイオスの拡張政策はナバテアの交易関係者を脅かしたため[7]、地域秩序の回復のため当時の国王オボダス1世はハスモン朝との戦争に踏み切り、紀元前93年頃のガダラの戦い(英語版)でヤンナイオスを破った。その後、ナバテア王国の影響力が増加していくことを良く思わなかったセレウコス朝はナバテア王国を攻撃したが[8]、ナバテア王国はカナの戦い(英語版)でセレウコス朝のアンティオコス12世を討ち取り勝利を収めた。この勝利によってオボダス1世はナバテア国民に神として崇められるようになり、ネゲヴ砂漠に彼を記念するためのアヴダト神殿が建てられた[4]


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