ナップ・ラジョイ
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ナップ・ラジョイ
Nap Lajoie
1913年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国
ロードアイランド州ウーンソケット
生年月日1874年9月5日
没年月日 (1959-02-07) 1959年2月7日(84歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手一塁手
初出場1896年8月12日
最終出場1916年8月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


フィラデルフィア・フィリーズ (1896 - 1900)

フィラデルフィア・アスレチックス (1901 - 1902)

クリーブランド・ブロンコス
クリーブランド・ナップス
(1902 - 1914)

フィラデルフィア・アスレチックス (1915 - 1916)

監督歴


クリーブランド・ナップス (1905 - 1909)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1937年
得票率83.58%
選出方法BBWAA選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ナポレオン・ラジョイ(Napoleon Lajoie,1874年9月5日 - 1959年2月7日)は、アメリカ合衆国ロードアイランド州ウーンソケット出身のプロ野球選手二塁手一塁手)。右投右打。

1900年代から1910年代にメジャーリーグベースボールで活躍し、20世紀初の三冠王。日本のメディアではラジョイと表記される事が多いが、実際はラジャウェイ/?la??we?/;と呼ばれている。
経歴

フランス系カナダ人の血を引くラジョイは優雅で洗練されたプレーで、ファンのみならず選手からも尊敬される存在だった。二塁守備も堅実で広い守備範囲を誇った。

1896年にフィラデルフィア・フィリーズに一塁手として入団。3年目の1898年から二塁手として活躍した。アメリカンリーグがメジャーリーグ宣言した1901年に、まだ強引な選手引き抜きが多かった頃に、同じフィラデルフィアにアメリカンリーグの球団としてアスレチックスが誕生し、オーナー兼監督のコニー・マックがラジョイと4年で2万4000ドルの契約を強引に結び、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍した。これは前年のシーズン終了後にフィリーズとの契約更改で年俸2500ドルのラジョイの要求をフィリーズが拒んだため、そこへコニー・マックから破格の金額提示でアメリカンリーグに移ったとされている。しかしそれに激怒したフィリーズは契約の無効を裁判所に訴え、1901年のシーズン中には判決が下りなかったため、この年はフィラデルフィア・アスレチックスでプレーした。この時にラジョイは打率.426、145得点、232安打、125打点、14本塁打で全てアメリカンリーグのトップとなった。これは近代野球がこの1901年から始まったとすれば最初の三冠王である。

ところが、翌1902年のシーズンが開幕してから、ペンシルベニア州の裁判所がアスレチックスとの契約を無効としてラジョイにフィリーズに戻る判決を下した。ここでアメリカンリーグのジョンソン会長とアスレチックスのコニー・マック監督は事態を収拾させるため、アスレティックスとの契約をクリーブランド・ブロンコスに譲渡させて、フィリーズも提訴を取り下げて、この年からクリーブランドでプレーすることになった。そして球団は愛称をブロンコスからラジョイに因んでクリーブランド・ナップスと改称した。

ここからラジョイのクリーブランドにおける活躍が始まった。特に1905年から1916年まで球聖タイ・カッブとは同じアメリカンリーグでしのぎを削った。

1910年首位打者争いは非常に有名であり、シーズン最終日時点でカッブが509打数196安打で打率.385に対し、ラジョイは打率.376と9厘差。首位打者を確信したカッブは試合を欠場。しかし、ラジョイはセントルイス・ブラウンズ(現:ボルチモア・オリオールズ)戦のダブルヘッダーで9打数8安打(最終591打数227安打で打率.384)、遊撃手失策とされた1打が安打になっていれば逆転で首位打者というところまで迫った。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのセントルイス・ブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手に「後ろに下がってプレーしろ」と命じた結果のものだった。しかし、露骨なシフトだったためこの八百長が発覚し、結局、公式な首位打者はカッブとなったものの、首位打者に贈られる賞品のマックスウェル・チャルマーズ社の車は両者に与えられることになった(そのシーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている)。

1981年、スポーティング・ニューズ社により1910年の集計に誤りが指摘され、カッブの成績が509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.385から.383に修正され、シーズン打率は2位に後退した。しかしコミッショナー特別委員会は八百長の影響もあってか、首位打者の変更を認めず、ラジョイはシーズン打率1位でありながら首位打者を逃した選手となった。MLB公式記録でもカッブは509打数196安打で打率.385のままである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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