座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度26分 東経11度07分 / 北緯49.43度 東経11.12度 / 49.43; 11.12
ナチ党大会場(1940年)ツェッペリン演壇内部の「黄金の広間」(Goldener Saal)ナチ党党大会会場(独: Reichsparteitagsgelande)は、ドイツ国の政党、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会会場。ニュルンベルク南東部に約11平方キロメートルに渡って建設され、1933年から1938年に掛けて6回の党大会が開催された。
概要1937年のパリ万国博覧会で展示された、計画最終段階の党大会会場の模型1927年、初めてニュルンベルクで開催された第三回党大会
会場には以下の施設が存在する。
ルイトポルト・アレーナ展開区域(Luitpoldarena)
ルイトポイト・ホール(Luitpoldhalle) - 旧議会ホールとも呼ばれる。第二次世界大戦中に損傷し、後に取り壊された。
議会ホール(Kongresshalle) - 新議会ホール(Neue Kongresshalle)とも呼ばれる。未完成。
ツェッペリン広場(Zeppelinfeld) - 別の展開区域。
メルツ広場(Marzfeld) - 未完成、後に取り壊された。ドイツ国防軍の展開区域。
ドイツ・スタジアム(Deutsche Stadion) - 世界最大のスタジアムとなる予定だった。基礎部分のみが建設された。
旧ヒトラーユーゲント・スタジアム(Stadion der Hitlerjugend) - 現在のフランケンシュタディオン。
大通り(Grose Strase) - パレード用の道。未使用。
「文化の家(Haus der Kultur)」と、「大通り」へと向う大きな門が、議会ホール近くの「大通り」の北西端に計画された[1]。
完成に至ったのは、ツェッペリン広場、展開区域、「大通り」のみであった。議会ホール、ツェッペリン広場、展開区域は、ナチス建築の重要な例として、1973年から記念碑として保護されている。
会場はアドルフ・ヒトラーの建築家、アルベルト・シュペーアによって設計された。但し議会ホールは、ルートヴィッヒ・ルフ(英語版)とフランツ・ルフ(英語版)により設計された。
今日では敷地全体が記念碑であり、一部が自動車レーストラックのノリスリンクとして使用されている。
1933年8月30日、ヒトラーはニュルンベルクを「帝国党大会の都市」と宣言した[2]。党大会はナチス・ドイツの自画像であり、プログラマティックなタスクはなく、単に国民の団結を示しただけであった。プロパガンダ的に、ナチスの運動と、中世における皇帝の栄光、そしてニュルンベルクにおける党大会との間に関係が描かれた[3]。 1923年から1938までの党大会[4]。詳細は「ナチ党党大会」を参照 開催期間開催場所name 1906年以来、バイエルン摂政であったルイトポルト・フォン・バイエルンに因んだ名前の、「ルイトポルト森林(Luitpoldhain)」という公園がここに存在した。ヴァイマル共和政時代(1919年?1933年)には、戦没者記念堂(Ehrenhalle)が園内に建設された。 1933年に、ヒトラーはこの公園を84,000平方メートルの面積を持つ、厳密に構造化されたルイトポルト・アレーナ展開区域(Luitpoldarena)へと改造した。 党大会では、この区域で最大150,000人のSAとSSの展開が行われた。このときに「血染めの旗の奉献(Blutfahnenweihe)」が行われた。この「血染めの旗(Blutfahne)」は、ミュンヘン一揆の際に隊員の血に浸されたものとされる旗で、彼らの中心的な「遺物」であった。SAとSSの新しい旗が「血染めの旗」に触れることで「奉献」が行われた。 1945年以降、ニュルンベルク市はこの地域を公園として再設計し[5]、ナチス時代の建物は全て破壊された。 メインの観覧席のテラスの半円形だけが現存する。 戦没者記念堂は、ドイツの建築家フリッツ・メイヤーが設計を手掛け、ニュルンベルク市によって建設された。落成はヴァイマル時代の1930年で、ナチス政権時代よりも前である[5]。 これはアーケード・ホールで、火鉢用の2列の台座がある石畳のテラスに隣接している。14の台座は全て実質的に無傷のままで、1938年9月の最後のナチ党集会以来、点火されていない。元々はこの戦没者記念堂は、第一次世界大戦で戦死した、ニュルンベルクの9,855人の兵士のためのものだった。1933年の党大会におけるSAの展開。背景は戦没者記念堂 1929年の党大会で、戦没者記念堂は国家社会主義者により、初めて死者崇拝の目的に使用された。第三帝国時代、ナチスは第一次世界大戦で戦死した兵士の記念堂という目的のほかに、1923年11月9日のミュンヘン一揆で犠牲となった16人の死者の記念としてもこの建物を使用した。 1934年の党大会で、ヒトラーは親衛隊リーダーのハインリヒ・ヒムラー及び突撃隊リーダーのヴィクトール・ルッツェを伴って、主観覧席から戦没者記念堂のテラスまで、240メートルの花崗岩の道を歩き、ナチス式敬礼を行った。儀式のクライマックスであった。 戦没者記念堂の向い側に、三日月形の「名誉の演壇」(Ehrentribune)と長さ150メートル(490フィート)の主観覧席があり、その両端には6メートル(20フィート)の金のワシが建てられた。建築家のアルバルト・シュペーアによって建てられたこの建造物は、要人500人を収容でき、ニュルンベルクでナチスによって建てられた最初の本格的な建造物である。戦没者記念堂と「名誉の演壇」は、広い花崗岩の道によって接続されていた。「名誉の演壇」は1959?60年に爆破解体された。 ルイトポイト・ホール(Luitpoldhalle、1906年築)は180メートル×50メートル(590フィート×160フィート)の輪郭、76本のスピーカー、42個のスポットライト、ドイツで最大のパイプオルガンを設置し、16,000人を収容することができた。建物の歴史はバイエルン博覧会にまで溯る。かつての機械ホールは改修され、ナチスによって1934年の党大会議に最初に使用された。その巨大な新古典主義のファサードは、3つの巨大な入り口に面した石灰岩が特徴だった。ドイツのユダヤ人やその他少数民族の公民権を奪ったニュルンベルク法が採択されたのは、1935年の党大会中のこの建物だった。建物は1945年の初めに連合軍の爆弾により深刻な被害を受け、数年後に駐車場となった。建物に続く花崗岩の階段は現在もそのまま残っている。 議会ホール(Kongresshalle)は、現存する中で最大の国家社会主義記念碑的建造物で、ランドマークとなっている。
党大会
1923年1月27?29日ミュンヘン
1926年7月3?4日ワイマール
1927年8月19?21日ニュルンベルク
1929年8月1?4日ニュルンベルク
1933年8月30日? 9月3日ニュルンベルク「勝利の大会」(Reichsparteitag des Sieges)と名付けられた。レニ・リーフェンシュタールにより、「信念の勝利」という題名で映画化。
1934年9月5日?10日ニュルンベルク「統一と力の大会」(Reichsparteitag der Einheit und Starke)と名付けられた。レニ・リーフェンシュタールにより、「意志の勝利」という題名で映画化。
1935年9月10?16日ニュルンベルク「自由」(Reichsparteitag der Freiheit)
1936年9月8日?14日ニュルンベルク「名誉の時代」(Reichsparteitag der Ehre)
1937年9月6?13日ニュルンベルク「労働」(Reichsparteitag der Arbeit)
1938年9月5?12日ニュルンベルク「大ドイツ」(Reichsparteitag Grosdeutschland)
1939年9月2日(戦争の勃発により中止)ニュルンベルク「平和」(Reichsparteitag des Friedens)
建築物
ルイトポルト・アレーナ展開区域(Luitpoldarena)1934年の党大会で、戦没者記念堂前のテラスに立つSSリーダーのハインリッヒ・ヒムラー、アドルフ・ヒトラー、SAリーダーのヴィクトール・ルッツェ。正面奥に見えるのが「名誉の演壇」
戦没者記念堂(Ehrenhalle)ルイトポルト森林の戦没者記念堂
名誉の演壇(Ehrentribune)
ルイトポイト・ホール(Luitpoldhalle)後のルイトポイト・ホールとなる機械ホール。1906年の絵葉書
議会ホール(Kongresshalle)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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