ナチ党の権力掌握
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ナチ党政権獲得1周年を記念したポストカード(1934年1月29日発行)。ヒンデンブルクと並ぶヒトラーの肖像とブランデンブルク門での松明行進が描かれている

ナチ党の権力掌握(ナチとうのけんりょくしょうあく、ドイツ語:Machtergreifung[注 1])では、ドイツの歴史において、アドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)によるドイツ国における権力掌握の過程、第一次世界大戦敗戦による帝政の崩壊、ヴァイマル共和政の混乱からナチス・ドイツの成立といった一連の史実を記述する。

ナチ党は、ドイツのそれまでの内閣や大統領の歴代政権が獲得することのできなかった強大な権力を「合法的」[注 2]に手中にした。この権力掌握の過程は、大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから1933年1月30日ヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内の政敵をほぼ一掃し、立法権行政権司法権の三権[注 3]を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。
背景
第一次世界大戦敗戦背後の一突きを描いた1919年のオーストリアの絵はがき。ユダヤ人が戦場のドイツ兵を背後から刺そうとしている。「国民社会主義ドイツ労働者党#歴史」、「第一次世界大戦の賠償」、および「反ユダヤ主義」も参照

ヴァイマル共和政期のドイツは、第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約によって、敗戦国として協商諸国に対して、莫大な賠償金を課せられ、領土は割譲された。

ドイツは海外植民地と普仏戦争で得たアルザス=ロレーヌ等を失い、ラインラントは非武装化され、ザール地方国際連盟の管理下に置かれた[3]。1936年にナチス政権がラインラントを再武装化するまで、ヴェルサイユ体制とよばれる国際秩序が形成された[3]

また軍備が制限されたために、大量の軍人が失職を余儀なくされ、失業者や武装組織「ドイツ義勇軍(フライコール)」のメンバーとなり、社会の不安定要因となった。彼らと国軍に残留した者の間では、「ユダヤ人に唆された共産主義者ドイツ革命を起こしてドイツ帝国に敗北をもたらした」とする陰謀論、「背後の一突き(匕首伝説)」が流布していった。ドイツ軍を指揮したパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥、戦時中実権を持ったエーリヒ・ルーデンドルフ陸軍大将、マクス・パウエル大佐、フォン・ヴリスベルク将軍も匕首伝説が事実であったと証言し、大戦の敗戦責任はユダヤ人と共産主義者ら左翼にあるとした[4][5]。また、ロシア革命ウクライナから逃亡してきたピョートル・シャベルスキー=ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は、ユダヤ人の国際陰謀について書かれた『シオン賢者の議定書』をドイツ福音教会の神学者ミュラー・フォン・ハウゼン[注 4]に手渡し、1920年にミュラーは仮名[注 5]でドイツ語訳を出版し12万部を売った[5][6]。ミュラーは、ユダヤ問題の解決のためには、ユダヤ人を閉じ込めるしかないと主張して、外国籍ユダヤ人の入国禁止、ドイツ人学校への入学禁止、金融業の国有化、ユダヤ人が経営する商店へのダビデの星の掲示義務化、ドイツ名の名乗り禁止、ユダヤ人団体の禁止などを列挙し、のちのニュルンベルク法などのような、ユダヤ人条例(Juden Ordnung)を提案し[5]、違反したユダヤ人は死刑と主張した[7]。全ドイツ連盟のクラースはこのユダヤ人条例案を支持した[7]

一方で、コミンテルン指揮下に置かれたドイツ共産党は再度の革命を目指し、勢力を拡大しつつあった。また、国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。またドイツ帝国以前からの伝統を持つ各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は掣肘された。

1920年3月13日に軍の縮小とドイツ義勇軍の解散に反発したカップ一揆が発生し、国家人民党、ドイツ国民党、経済界は新政府を支持した[8]。これに対して社会民主党独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟ゼネストを行い、さらに左翼復員のルール赤軍によるルール蜂起が発生したことで、カップは退陣した[8]。ルール蜂起も国軍によって鎮圧された[8]

1921年1月、賠償額交渉で総額2,260億マルクという莫大な賠償金が課せられたため、ドイツ全土は激しい怒りに満ちた[注 6]。ドイツ政府は修正を要求したが、連合国は拒否してライン地方を占領し、圧力をかけた[8]。1921年5月のロンドン会議で総額1,320億マルクへと修正され、ドイツが拒否する場合はルール地方を占領するという最後通牒を通達した[8]中央党コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した[8]。1921年10月、連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこには鉱工業が集中していたため、ドイツは反発した[8]。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった[9]

このような状況のなか、1921年アドルフ・ヒトラーがナチ党の指導者[注 7]となって以降、同党は拡大を続けた。


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