ナチス・ドイツの軍事
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兵器工場を視察するヒトラー、戦車はIV号戦車(1944年4月)

ナチス・ドイツの軍事(ナチス・ドイツのぐんじ)では、1933年から1945年ドイツ、いわゆるナチス・ドイツ軍事について記載する。
概要

第一次世界大戦での敗北の結果、ヴェルサイユ条約によってドイツには非常に厳しい軍備制限が課せられた。ヴァイマル共和国軍連合国の監視の目をかいくぐって軍備を強化していたが、1933年のナチ党の権力掌握によって公然化した。ドイツは1934年に世界軍縮会議(英語版)から脱退し、1935年3月16日には徴兵制の施行を宣言した(ドイツ再軍備宣言)。しかしイギリス英独海軍協定を締結して事実上再軍備を容認し、フランスやイタリアなども強い動きには出なかった。

総統アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約で失った旧ドイツ領土の回復と、東部における広大な生存圏を求める思想を持っていた(東方生存圏)。ヒトラーは、1943年から1945年の開戦を想定し、政・軍部の反対派を粛清して軍備拡大と自給経済体制への変革をすすめた。しかし、1939年9月にはヒトラーの冒険的外交によって英仏の宣戦を招き、ドイツは準備不足のまま世界大戦に突入した。

第二次世界大戦の冒頭では電撃戦戦術や装甲戦力の運用によってドイツ軍は快進撃をみせ、イタリア王国などの枢軸国とともにヨーロッパの大半を支配下に置くことに成功した。しかしバトル・オブ・ブリテンにおいてはイギリス空軍を制圧できず、海軍力も限定的であったため、イギリスを屈服させることはできなかった。ヒトラーは戦局の打開と東方生存圏獲得のためソビエト連邦への侵攻を開始した(独ソ戦)。しかしロシアの気候赤軍の反撃によって次第にドイツ軍は疲弊していった。また西側連合国は北アフリカとフランス、そしてイタリア半島において逆襲を開始した。資源・人的資源が枯渇する中でドイツはV1飛行爆弾等の新兵器や国民突撃隊編成などで抵抗するが、1945年5月に首都ベルリンは陥落、ドイツ軍は降伏に追い込まれた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。
歴史
前史詳細は「ヴァイマル共和国軍」を参照

第一次世界大戦で敗北したドイツ軍は陸軍10万人、徴兵制禁止など規模や装備においても著しく制限された(ヴェルサイユ条約#軍備条項)。この中でハンス・フォン・ゼークトプロイセン王国以来の伝統をもつ少数のエリート軍が予備兵力としての国民軍(Volksarmee)もしくは民兵を指揮する防衛体制を構想していた[1]。この思想の元でヴァイマル共和国軍は強固な団結をもつ「国家内国家」としての特別な地位を獲得した[1]。しかし第一次世界大戦従軍兵の高齢化が進み、戦時の際に予備兵力を編成できないことが危惧されていった。国防次官クルト・フォン・シュライヒャーは兵役期間を短縮することで、軍務経験者を増やして民間軍事団体を増やし、予備兵力を増加させる構想を建てた。1932年には、青少年に軍務訓練を行う「ドイツ青年鍛練管理局」(Reichskuratorium fur Jugendertuchtigung)の設置準備が行われた[1]
初期の軍事政策

1933年1月30日にヒトラー内閣が成立した。1月31日にヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣は軍に布告を行い、軍が引き続き超党派勢力として国民軍を指導する存在であると位置づけた[2]。2月3日にはハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅でヒトラーと軍部首脳との会談が行われた。この中でヒトラーはヴェルサイユ条約の打破と東方への進出を説いた。ヒトラーは2月8日の閣議で「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、何時でも何処でも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4?5年間の至上原則であるべきだ」と述べ、経済政策も軍事に従属させる意思を示していた[3]。雇用創出措置民生中心から、「軍事的雇用創出の優位」へなし崩しに切り替えられた[4]。しかし、軍事費を公債によって公然と調達すればインフレを招く危険性があった。

1933年5月、国防省とライヒスバンク、軍需企業によって「冶金研究会社」(ドイツ語: Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称MEFO)」というペーパーカンパニーが作成され、同社の振り出すメフォ手形による軍事費の調達が行われた[5]。再軍備におけるメフォ手形の役割は極めて大きく、1935年度には82億2300万ライヒスマルクの軍事費が使用されているが、そのうちの55億ライヒスマルクがメフォ手形によって調達されたものであった[6]

一方で2月にはヘルマン・ゲーリングが航空担当国家委員(Reichskommissar fur die Luftfahrt)に任命され、空軍の建設が始まった。3月にはドイツ航空スポーツ連盟(ドイツ語版)が設置され、5月5日にはゲーリングを大臣とする航空省が設置された。また陸軍航空部門(ドイツ語版)が航空省の管轄に移っている。
突撃隊問題「長いナイフの夜」も参照

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)はドイツ最大の準軍事組織である突撃隊を抱えており、また突撃隊幕僚長エルンスト・レームは突撃隊を新たな軍の母体にする構想を持っていた。このため軍首脳は突撃隊の存在が唯一の武装勢力としての軍の存在を脅かしかねないと考えていた。2月1日にヒトラーは軍が偉大なる過去の象徴であり、突撃隊や親衛隊と合併することは考えていないと説明した[2]。また兵務局長宅の会談でも突撃隊や親衛隊は軍にならないと再度強調している[2]。2月に国防相官房長となったヴァルター・フォン・ライヒェナウはナチ党に近く、突撃隊を国境防衛に動員する構想を立ち上げた。5月17日には軍・突撃隊の首脳とヒトラーが会談し、ヒトラーは突撃隊が軍の指揮の下国境防衛に就くよう命令した。この任務のため、突撃隊には小銃とピストルが支給されることとなったが、軍は唯一の武器保有者としての立場を示し、あくまで任務に必要な間だけ供給されるものであるとされた[7]。7月1日のバート・ライヘンハル(ドイツ語版)の突撃隊・親衛隊指導者会議でこの方針は正式に伝達され、6月前に結成された国境防衛組織に突撃隊と鉄兜団、前線兵士同盟が参加することとなった。

ヒトラーは「SA(突撃隊)は決して軍に取って代わろうとしたり、軍と競争してはならない」と言明している[7]。レームも表面的にはこれに応えていたが、突撃隊と軍の暗闘は続いた。レームは「ドイツ青年鍛練管理局」を突撃隊に編入させて「SA訓練機関」とし、民兵組織権を手に入れようとした。ライヒェナウは組織の監督権を掌握することでSA訓練機関を軍の影響下におくことに成功したが、レームら突撃隊はなおも不満であった。

ヒトラーはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの攻撃的兵器全廃提案を賞賛し、5月17日には「大平和演説」と呼ばれる世界規模の軍縮を支持する演説を行ったが、これは外交的なポーズに過ぎなかった[8]。そして10月14日には世界軍縮会議で突撃隊と親衛隊が軍人扱いされたことを口実として、ドイツは軍縮会議と国際連盟を脱退した[9]


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