ナチス・ドイツの経済
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「公益は私益に優先する」(Gemeinnutz vor Eigennutz)の言葉がきざまれた1ライヒスマルク貨幣(1937年発行)

ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済について記述する。
概要

ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、ドイツの回復は賃金の増大や民間消費拡大をともなわなかった[1]。しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されず、軍備拡大のために膨大な国家債務も抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた第二次四カ年計画を開始するが、資源難と労働力不足は改善されなかった。1938年には軍備生産を3倍にするという計画が立てられたが、実務において一貫性はなく、財政危機で破綻した[2]。こうして軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。

戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省[注釈 1]が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産は拡大されて総力戦体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。
経済に関するナチスのイデオロギー「ナチズム」も参照

経済におけるナチズムのイデオロギーは不鮮明である。結党時からのメンバーで25カ条綱領の策定にも携わり、党の経済委員会の座長を務めていたゴットフリート・フェーダーは利子奴隷制の打破や企業の国有化、国際金融資本との戦いを持論としていた。ヒトラー自身も『我が闘争』においてフェーダーの主張を一部取り入れているが、同時に「国家は民族的な組織であって経済組織ではない」「国家は特定の経済観または経済政策とは全く無関係である」とも述べており、統一的なナチス経済政策というものは存在しなかった[3]

一方で経済政策について熱心であったのはグレゴール・シュトラッサーを中心とするナチス左派と呼ばれる社会主義的改革を求める派閥であった。しかしヒトラーが政権獲得のために保守派や財界に接近すると、左派は猛反発した。ヒトラーは1926年のバンベルク会議で左派を押さえこんだが、その後も一定の勢力は保持していた。1932年7月にナチ党が公表した経済振興策はシュトラッサーが起草したものであった。この振興策には道路網計画などの一部は後のナチス時代において実行されるが、この計画の実質的な発案者はユダヤ人のロベルト・フリートレンダー=プレヒトル(ドイツ語版)であった[4]。また5月にはフェーダーの持論に基づく、全銀行・信用供給機関の国有化を提案している[5]。政権獲得後にはこれらの計画は白紙に戻され、フェーダーや左派の思想がそのまま実行されることはなかった。

ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4?5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ヒトラー内閣時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった[6][7]

経済政策の基本には、民族共同体の構築[8]、東方への侵略と植民による生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そのための軍拡があった[9][10]。個別政策では、経済団体統制に用いられた指導者原理、農業政策における独立小農民保護政策、労働環境からの女性排除、そして経済の脱ユダヤ化などはナチズムの思想に基づくものであった。
政権獲得から第二次大戦まで
前史ヴァイマル共和政時代のハイパーインフレーション「ヴァイマル共和政」および「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を負わされたドイツは経済的にとっても不安定であった。フランスルール占領に対する抵抗が引き起こしたインフレーションは天文学的な規模におよんだが、ライヒスマルク(以下、マルクと表記)の新規発行で終息した。その後は黄金の20年代(ドイツ語版)と呼ばれる好景気期を実現したが、1928年頃から次第に景気は後退し、1928年半ば頃には159万人だった失業者が、1929年半ば頃までに20万人増加した[11]。1929年10月に世界恐慌が始まると、アメリカをはじめとする外資によって支えられていたドイツ経済はたちまち破綻した。国内の需要は極端に減少し、財・サービスの輸出入は落ち込んだ。産業構造は第一次世界大戦期からの重工業・化学製品重視政策が継続されていた[12]

1930年に首相となったハインリヒ・ブリューニング首相は金融安定化策で不況に対応しようとした。景気悪化状況での経済対策には財源が必要であり、増税が不可避であった。しかし増税策は議会の反対で否決され、ブリューニングは大統領緊急令や複数化の選挙による強行突破で予算や金融政令を成立させた。ブリューニングが選択した政策は税収増加・福祉予算等の政府支出の削減・物価の抑制を主眼としたデフレ政策であり[13]、彼は「飢餓の首相」と国内から批判を受けた[13]。一方でハインリヒ・ブラウンス(ドイツ語版)前労相の指揮の元、外国融資を資金として大規模な公共事業計画を立案した[13]

1931年3月23日にはオーストリアとの関税同盟(独墺関税同盟)を結んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約の「ドイツ・オーストリア合邦禁止」規定に抵触するとして連合国諸国から強い反発を受け、フランスは制裁としてオーストリアの資本を引き揚げた。これを受けてオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルト(ドイツ語版)が破綻し、ヨーロッパの金融危機を招いた。1931年7月にはドイツ第2位の大銀行ダナート銀行(ドイツ語版)が支払い停止で閉鎖され、大統領令で8月までドイツ全土の銀行が閉鎖されたものの金融危機は収まらず、不況はさらに悪化した。外資もあてに出来ない状況となり、インフレの再来を恐れる世論やライヒスバンクが大規模な財政出動に反対したため、公共事業計画は縮小された上に実施されなかった[14]。1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達してピークを迎えた[15]。産業総失業者割合は40%を超え、同時期のイギリスやアメリカの2倍近くに達している[11]


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