ナチス・ドイツのプロパガンダ
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ベルギーにおける宣伝部門の活動展示、1941年12月/1942年1月。

ナチスのプロパガンダは、ナチズムを信奉する者にとって、特にナチ党 (NSDAP) にとって要となる活動の一つであった。ヴァイマル共和政時代では1933年政権獲得ナチス時代のドイツ国では権力維持に大きな役割を果たし、また戦争動員のイデオロギーとして機能した。
概要

ナチスのプロパガンダの主要テーマには、ナショナリズム人種主義反セム主義とこれと密接に関連する反共産主義、またイデオロギーとしては民族共同体、戦争の英雄を賛美する軍国主義があり、加えてナチスの女性像独裁者アドルフ・ヒトラーに無条件に服従する総統崇拝(ドイツ語版)が挙げられる。戦争準備に直結したものとして、「土地なき民(ドイツ語版)のドイツは、力尽くで生存圏を東方に獲得するほかない」という言説があり、社会ダーウィニズムの視座から「強者の権利」と正当化された。

ナチのプロパガンダは、内容面からいうと、テーマを重要なものに絞ることで、記憶に残り、感情に訴えかけるスローガンを作り出すものであった。これはアドルフ・ヒトラーのプロパガンダの指針を踏襲したものである。1924年から1926年にかけて書かれた基本の書『我が闘争』にはこうある。「プロパガンダの芸術とは、まさにこの点にある。すなわち大衆の感情に基づく表象世界を理解し、心理学から見て正しい形式をとれば、注目を集めるばかりか、ひいては広範な大衆の心へ至る道を見出すのである[1]。」

ナチ・プロパガンダを広める際に重要な手段となったのが、書籍新聞、またラジオ映画といった新しいメディアであった。ナチのプロパガンダで主要な部分を占めたのは、ナチスの映画政策であった。この他にも重要な役割を果たしたものに、公共空間で行われる集会や行進、学校での授業、ヒトラーユーゲントドイツ少女連盟といった慈善の団体、物質面での優遇などがあった。

ナチのプロパガンダを広め、統括する中核機関として設置されたのが、ヨーゼフ・ゲッベルスによる帝国国民啓蒙宣伝省である。
発展過程
ヒトラー『我が闘争』に見るナチスのプロパガンダ指針

1924年から1926年にかけて著した『我が闘争』で既にヒトラーは、後のナチのプロパガンダにとって核となる原型と指針を編み出していた[2]。これによれば、プロパガンダが焦点を合わせるべきは専ら感情に他ならず、知能へは非常に限られた場合のみである、とされた。プロパガンダで必須なものとして「庶民が親しめるものであること、そして対象とする者のなかでも最も程度の低い者の受容力に合わせること[3]」を挙げた。また「プロパガンダに学術講義のような多面性を与えようとすることは誤り[4]」とした。プロパガンダと客観的であること、また真実であることは、操作する上でどのようにかかわるのか、ヒトラーははっきりと自己の考えを明らかにした。プロパガンダとは「真実が他者を利する限り、大衆に向かって教条的に正しく客観的にこれを追究するためではなく、絶え間なく大衆を自らの意のままにするためにある[5]。」

広範な大衆に向けたプロパガンダの根本原則とは、ヒトラーによれば、テーマ、考え、結論を絞り、執拗に繰り返せばよい、とした[6]

ヴィクトール・クレンペラー(ドイツ語版)は、後に著書『第三帝国の言語「LTI」―ある言語学者のノート(ドイツ語版)』[7]において、ナチスの言語とのかかわりについて述べた。結論としては、ナチスのレトリックが人々に影響を与えたが、これは個々の演説やビラなどによるものではなく、ナチ的イメージが刷り込まれた常に同じ概念や常套句を、判で押したように繰り返すことによるものであった、とした。
1933年以前のナチスのプロパガンダ

1923年11月のミュンヘン一揆に失敗した後、ヒトラーはナチ党の新行動計画を策定した。これによれば、合法的な方法で政権の座に就くべく、クーデター戦術は新たな「合法戦術」に置き換えねばならないとした。その実現のためには、ナチ党は過激分派のイメージを拭い去り、大衆に基盤をつくる必要があった。そこでは、様々な民主主義政党が行った組織化活動が手本とされた。議会主義といった政治上の抵抗勢力を、彼らの武器を利用し、打倒しようとしたのである。

「大衆動員」を達成するため、政治活動の重点はプロパガンダに置かれた。ヒトラーは『我が闘争』で既に以下の原則を編み出していた。

テーマや標語を絞る

あまり知性を要求しない

大衆の情緒的感受性を狙う[8]

細部に立ち入らない

信条に応じ、何千回と繰り返す

こうしてナチ・プロパガンダの定式が決まり、ナチの装置として最も成功した武器となった。

ナチのプロパガンダと相対する概念であったのが、他の民主主義政党の採った方法であり、理性的な論拠に基づき政策を広報していた。ナチのプロパガンダは、説明を意図的に放棄する代わりに、非理性的なもの、感情が左右する「敵か味方か」という類型に訴えかけるものであった。集会での演説は、1933年までナチスにとって最も重要な煽動の手段であった。ここで目的とされたのは、具体的計画を示し、選挙公約や政治目標を説明することではなく、曖昧模糊としたナチズムへの「漠然とした信仰」を普及することにあった。来る将来展望の点については、宣伝担当者は処方箋通りに、万人に全てを約束したが、具体的な明言は避けた。こういった方式に基づいているため基本的にヒトラーの演説の内容は、内容がなく、感情的にまくし立てて国民を扇動することが基本路線であった(後述)。

全国宣伝指導部(Reichspropagandaleitung)の長である全国宣伝指導者(Reichspropagandaleiter)は、1926年までは党首であるヒトラー自身が兼務していた。その後、このポストは党のナンバー2であったグレゴール・シュトラッサーに移り、さらに1929年にヨーゼフ・ゲッベルスが引き継いだ。ゲッベルスのもとでナチ党宣伝局は大きく拡張され、ナチ党の政権奪取に決定的な役割を果たすことになる。
1933年政権掌握以降のナチスのプロパガンダ突撃隊の点呼で演説する宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス1934年8月25日、ベルリンルストガルテン宣伝スローガン、1944年。

1933年1月30日、ヒトラーがドイツ国首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。与党となったナチ党は3月5日の国会選挙に向けて政府機関をも駆使したプロパガンダを強化することが可能となり、その結果としてナチ党は国会議員の647議席中288議席を獲得する大勝利をおさめた。3月14日、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクはヒトラーの要請にもとづいて「帝国国民啓蒙宣伝省」の新設を承認し、ナチ党宣伝全国指導者であるゲッベルスを国民啓蒙・宣伝大臣に任じた。その前日にヒトラーは、ナチ党の政権掌握に続き、ミュンヘンで「州の政治意思の均一化」を命令した。ゲッベルスが党と政府の宣伝政策の責任者を兼任したことにより、国家全体にわたる宣伝活動が組織的に実施されることになった。意見形成の最重要機関は今やナチ党の装置に組み込まれ、ベルリンから一元的に指令されることになった。ナチ党はこうして国家的なプロパガンダを手中に収めたのである。

可能な限り多くの市民が聴取できるように、ナチ党が特別に開発を推進し、大々的に生産されたのが「国民受信機」であり、国民からはすぐに「ゲッベルスの大口 (Goebbelsschnauze)」とあだ名された。価格は76ライヒスマルク(従来のラジオは200から400ライヒスマルク)と安価に抑えられ、国民のほとんどが手にすることができた。そのためラジオは、すぐにナチのプロパガンダで影響力の大きなメディアへと成長した。しかし休む間もなく声を張り上げる政治宣伝番組が続くと、これに嫌気が差す国民が急速に増えていった。そこでゲッベルスは必要に迫られ、より一層人々の気をそそり、気晴らしになるような番組制作へと舵を切った。


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