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出典検索?: "ナチス・ドイツのフランス侵攻"
フランスの戦い
第二次世界大戦の西部戦線中
(時計回りに)北フランスの放棄された車両 パリを行進するドイツ軍 ドイツの対戦車砲を調査するイギリス兵 撃破されたフランスの装甲車 捕虜となったフランス兵 アルデンヌの森を通過するドイツ軍のI号戦車とII号戦車
時1940年5月10日 ? 6月25日
場所フランス及びベネルクス
結果
枢軸軍の決定的勝利
フランス第三共和政崩壊
1940年6月22日休戦協定、ヴィラ・インチーサ休戦協定(イタリア語版)の締結
イギリス大陸派遣軍撤退(ダイナモ作戦)
自由フランス軍結成
領土の
変化
アルザス=ロレーヌをドイツに、マントンをイタリアに割譲
ドイツ進駐領域、イタリア南仏進駐領域成立
自由地域(フランス語版)にヴィシーフランス政権が樹立
衝突した勢力
ナチス・ドイツ イタリア王国
(6月10日-)
フランス イギリス
カナダ
ベルギー
オランダ
ルクセンブルク
チェコスロバキア亡命政府
ポーランド亡命政府
指揮官
アドルフ・ヒトラー
ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
ゲルト・フォン・ルントシュテット
フェードア・フォン・ボック
ヴィルヘルム・フォン・レープ
アルベルト・ケッセルリンク
フーゴ・シュペルレ
ベニート・ムッソリーニ
ウンベルト2世
ピエトロ・ピントール(イタリア語版)
アルフレード・グッツォーニ(イタリア語版) モーリス・ガムラン[注 1]
マキシム・ウェイガン
アルフォンス・ジョルジュ
ガストン・ビヨット †
ジョルジュ・モーリス・ジャン・ブランシャール
アンドレ=ガストン・プレテラ
ジョン・ヴェレカー
レオポルド3世 (捕虜)
ヘンリー・ヴィンケルマン (捕虜)
ヴワディスワフ・シコルスキ
部隊
枢軸軍
B軍集団
独第18軍
独第6軍
A軍集団
独第4軍
独第12軍
独第16軍
C軍集団
独第1軍
独第7軍
西方軍集団
伊第1軍
伊第4軍
連合軍
第1軍集団
仏第7軍
仏第1軍
仏第9軍
仏第2軍
イギリス大陸派遣軍
第2軍集団
仏第3軍
仏第4軍
仏第5軍
第3軍集団
仏第8軍
アルプス方面軍
仏第6軍
ベルギー軍
オランダ軍
戦力
北フランス戦線
141個師団[1]
野戦砲7378門[1]
戦車2445両[1]
航空機5638機[2][3]
兵員335万名
アルプス戦線
兵員30万名
北フランス戦線
144個師団[1]
野戦砲1万3974門[1]
戦車3383両[1]
航空機2935機[4]
兵員330万名
アルプス戦線
兵員15万名
被害者数
ドイツ国
戦死2万7074人
戦傷11万人
行方不明者1万8384人
戦車・装甲車753両
航空機1,236機
イタリア王国
戦死631人
戦傷2631人
行方不明者616人 フランス共和国
イギリス
戦死・戦傷36万人
捕虜190万人
戦車・装甲車5,100両
航空機2,000機
フランスを侵攻するI号戦車とII号戦車フランス軍のルノーB1重戦車。多くはドイツ軍を迂回させたマンシュタインの侵攻計画含む4つの軍事プラン
ナチス・ドイツのフランス侵攻(ナチス・ドイツのフランスしんこう)は、第二次世界大戦中の1940年5月に発生したドイツ国防軍をはじめとする枢軸国軍と連合国軍とのベネルクス三国・フランス北部での戦闘である。ドイツ軍の電撃戦が最も成功を収めた例と考えられている。
フランスの戦い(フランス語: Bataille de France)、西方戦役(ドイツ語: Westfeldzuge)とも呼ばれる。ドイツ側の作戦名は第1フェイズ(ベネルクス三国、フランス北部侵攻)が黄色作戦(Fall Gelb、ファル・ゲルプ)、第2フェイズ(ソンム川以南への侵攻)が赤色作戦(Fall Rot、ファル・ロート)である。 1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことを受けて9月3日、フランスはイギリスとともにドイツに宣戦布告したが、フランス・ドイツ国境地帯(アルザス=ロレーヌ)において戦闘はほとんど起こらず、フランス人が言うところの「奇妙な戦争」の様子を見せていた。 開戦から半年以上が過ぎた1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を開始。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前からの計画(ディール計画
概要
5月15日、ドイツ装甲部隊はスダン(セダン)付近でミューズ川を渡り[5]、5月20日には英仏海峡に到達し、英仏軍左翼は包囲されてしまった。5月21日、22日に、ドイツ軍突出部を切り取ってしまうための英仏軍の反撃が行われたが失敗した。5月28日には、ベルギーは降伏した。5月末、包囲された英仏軍の多くはイギリス本土への撤退にかろうじて成功した(ダイナモ作戦)が重装備はすべて失われた。
フランス側は、ソンム河沿いの防衛線ウェイガン・ラインで防衛する計画であったが、ソンム河南岸には既にドイツ軍橋頭堡が存在しており、制空権はドイツ側にあり、戦力比は大幅劣勢であった。
6月5日に、ドイツ軍の南部侵攻作戦「赤色作戦(Fall Rot)」が始まった。