ナセル・オリッチ
1967年3月3日 –
生誕 ボスニア・ヘルツェゴビナ・スレブレニツァ
軍歴1992年-1995年
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ナセル・オリッチ(ボスニア語:Naser Ori?、1967年3月3日 - )はボスニア・ヘルツェゴビナの軍の元司令官である。1992年から1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にセルビア人勢力に包囲された東ボスニアの町スレブレニツァを防衛していたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)の師団の指揮官であった。2006年、ナセル・オリッチは、オランダのデン・ハーグに設置された旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって、1992年から1993年にかけての戦争犯罪の指導者責任を認定され、懲役2年を言い渡された[1]。一方で、その他の罪状、すなわち軍事的必要の範疇を超えた破壊行為や市民生活基盤の損傷については免罪された。判決では、クラヴィツァ(Kravica)、シリコヴィチ(Siljkovi?i)、ビェロヴァツ(Bjelovac)、ファコヴィチ(Fakovi?i)、シキリチ(Sikiri?)の各村に対する攻撃と破壊に関して、セルビア人勢力がこれらの村での戦闘に大砲を用いており、ボスニア側がこれらに関して責任を負うと認めるのに十分な証拠を、検察側が提示することができなかったとした。ビェロヴァツの攻撃に関しては、更にセルビア人勢力は戦闘機も使用している[2]。2008年7月3日、ナセル・オリッチはICTYから訴追された疑いをすべて晴らした[3][4]。 高等学校を出たあと、オリッチは徴兵制度によってユーゴスラビア人民軍(JNA)に1985/1986年に入隊し、化学・核防護に関する特殊部隊で勤務した。オリッチは退役時には伍長の地位にあった。
あゆみ
1991年8月、オリッチは、ボスニア、サラエヴォ郊外のイリジャ(Ilid?a)の警察署に配属された。1991年の末、オリッチはスレブレニツァの警察署に移動され、1992年4月にはポトチャリ(Poto?ari)警察支所の所長となった。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊の中、ユーゴスラビア人民軍(JNA)の中核はボスニア・ヘルツェゴビナの防衛の準備を始めていた。 1992年4月中旬、ポトチャリの防衛隊が結成され、オリッチはその司令官となった。1992年5月、スレブレニツァ防衛隊の危機本部のメンバーらはオリッチをその指揮官に指名し、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)総司令部最高指揮官のサフェル・ハリロヴィッチ 1992年9月、スレブレニツァ防衛隊の最高司令部はスレブレニツァ武装隊へと改称された。オリッチはその指揮官の地位に留まった。オリッチの権限は、1992年11月にスレブレニツァ地域の複合武装隊の指揮官に指名されたことによって大幅に強くなった。オリッチの権限は、東ボスニアのスレブレニツァ、ブラトゥナツ、ヴラセニツァ、ズヴォルニクの各自治体の全域へと及ぶことになった。オリッチは1993年4月に表彰を受けている。 1994年元日、オリッチ指揮下にあった全ての部隊は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)第2(トゥズラ)軍団の第8作戦部スレブレニツァ司令部と改称された。オリッチは准将へと昇進し、3月までにはボスニア・ヘルツェゴビナ軍の最高指揮官から「黄金のユリ」賞を受けている 1995年初頭、第8作戦部スレブレニツァ司令部はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第2軍団第28山岳師団と改称された。 セルビア人がブラトゥナツを制圧し、スレブレニツァでは大規模な民族浄化への前段階となっていた。1992年4月10日にセルビア人勢力がスレブレニツァを制圧すると、町のボシュニャク人住民は周辺地域へ脱出した。スレブレニツァに留まった者の一部は殺害され、その他は逮捕され強制移送された[5]。ICTYの判決によると:「ひとたび町の支配権が彼らの手に渡ると、セルビア人武装勢力 - 軍、警察、準軍事組織、そして時としてセルビア人の村人たち - は同じパターンに従って行動した。ムスリム人の家屋や住宅は組織的に破壊されるか焼き払われ、ムスリム人の村人は追い込まれるか捕らえられ、この中で時に殴られたり殺害されたりした。男性と女性は分離され、そのうち男性たちの多くはKP Dom強制収容所に拘留された。」[6] この間、スレブレニツァ周辺の村々の人々は、地域的なレジスタンス運動を組織していった。オリッチはその指導者の一人であった。 はじめのころ、オリッチの支持者は少数であり、スレブレニツァの警察の武器庫から自動小銃やライフルを集めることしかできなかった。オリッチによる初の大規模なセルビア人に対する攻撃は1992年4月20日にポトチャリでのことであった。このときオリッチは、セルビア人の準軍事組織でジェリコ・ラジュナトヴィッチ(アルカン)に率いられていたセルビア義勇親衛隊(「虎」)と、地元のセルビア人警察の自動車に対する待ち伏せ攻撃を成功させた。その直後、ユーゴスラビア人民軍は、工業地帯とオランダ軍のいるポトチャリのオリッチの本拠地に向けて大砲で攻撃を加えた[7] 。 1992年5月、ボシュニャク人の勢力は、スレブレニツァとその周辺地域のセルビア人に対して攻撃を始めた。5月6日、ナセル・オリッチに率いられたボシュニャク人勢力は、セルビア人の村に対して初めて攻撃を加え、スレブレニツァの北にあるグニオナ(Gniona)を攻撃した。スレブレニツァのセルビア民主党の指導者ゴラン・ゼキッチ(Goran Zeki?)は待ち伏せ攻撃によって5月8日に死亡した。セルビア人はその後、スレブレニツァを去っていった。オリッチやその他のボシュニャク人の指導の下にあったボシュニャク人勢力は、5月9日にスレブレニツァの支配権を確保した[8]。 その後数日間のうちに、森などに隠れて避難していたボシュニャク人はスレブレニツァに帰還した。ボシュニャク人勢力はその後3年間にわたって町を支配し、その間セルビア人の住民はほぼすべてがブラトゥナツやその他の場所へ脱出した。ボスニアのセルビア人勢力はこれに対して、グロゴヴァ(Glogova)のボシュニャク人を5月9日に、ブラトゥナツのボシュニャク人を5月10日から5月13日にかけて殺害して応じた。セルビア人勢力はスレブレニツァを包囲し、町への攻撃を始めた。 フランスの将軍フィリップ・モリヨン 1992年にセルビア人勢力がスレブレニツァを制圧した後、ナセル・オリッチとボシュニャク人勢力は、彼らの支配下にある地域の拡大を図った。
地域防衛(1992年4月-1992年9月)
ボスニア・ヘルツェゴビナ軍(1992年9月-1995年)
1992年-1995年 スレブレニツァでのオリッチ
スレブレニツァでの紛争の始まり
ボシュニャク人による攻撃