(国旗)(国章)
国の標語: ??? ???? ??? ????
アラビア語:アッラーの他に勝利者はなし
公用語アル=アンダルス・アラビア語
首都グラナダ
アミール
1232年 - 1273年ムハンマド1世(初代)
1464年 - 1482年アブルハサン・アリー(第26代)
1482年 - 1492年ムハンマド11世(ボアブディル)[1] (最後)
変遷
成立1232年
滅亡(レコンキスタ)1492年
現在 スペイン
ジブラルタル
モロッコ
ナスル朝(ナスルちょう、アラビア語: ??? ???(Ban? Na?r)、スペイン語: La dinastia Nazari、またはLa dinastia nasri、ナスリー朝)は、イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラム王朝。1492年、この王朝がスペイン帝国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)が完了した。
グラナダに首都を置いたため、グラナダ王国(スペイン語:Reino de Granada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。 13世紀初め、それまでアンダルスを支配していたムワッヒド朝が、新たに勃興したハフス朝、マリーン朝との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった[2]。これにより、アンダルスは「第三次ターイファ」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立した[2]。その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル))[注釈 1]がハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファの1国となった[5]。1237年 (1238年ともいわれる[6]。)、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた[6]。この後、さらにアルメリア、マラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立した[5]。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた[7]。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった[8]。 ナスル朝成立当初、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手をアッバース朝、ムワッヒド朝と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった[5]。キリスト教徒とも関係を持ち、1232年のカスティーリャ王フェルナンド3世によるコルドバ征服にも協力した[5]。しかし、フェルナンド3世が根拠地ハエンの攻略を開始したことから、ムハンマド1世は臣従と貢納金の支払いを行なうことなり、さらには1246年ハエン一帯をカスティーリャ王に割譲することとなった[5]。このため、ムハンマド1世はムスリム君主でありながらカスティーリャ王の封建的家臣という立場となり[7]、その征服事業にも軍を派遣した[5]。 グアダルキビール川流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった[9][注釈 2]。また、フェルナンド3世への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった[11]。 アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリー[注釈 3]はムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった[9]。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守[注釈 4]でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった[9]。 1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及びムルシアなど[9])では再植民運動により入植した民衆と、ムデハル
歴史
建国
アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱
1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした[9]。この反乱の原因は、1257年にムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと[9]、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したこと[10]が考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した[9]。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった[14]。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた[9]。
この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした[9]。しかし、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に結んだ和約に基づきヘレス及びムルシアを放棄することとなった[14]。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、アラゴン王国の支援[注釈 7]を受けムデハル反乱を鎮圧した[13]。 13世紀後半になると、ジブラルタル海峡を押さえるアルヘシラス、ジブラルタル、ロンダ及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった[15]。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、ジブラルタル海峡をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた[15]。1275年以降マリーン朝のアブー・ユースフはカスティーリャ王国の内紛[注釈 8]に乗じアンダルスへの介入を行なった[15][注釈 9]。その子アブー・ヤアクーブも1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年にはタリファをカスティーリャ王国に奪われてしまった[15]。 14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみセウタ攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、アラゴン王国、マリーン朝の包囲を受け撤退した[17]。
カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き