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ハンガリーの政治家ナジ・イムレNagy Imre
ナジ・イムレ(1945年頃撮影)
生年月日1896年6月7日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国 カポシュヴァール
没年月日 (1958-06-16) 1958年6月16日(62歳没)
死没地 ハンガリー ブダペスト
所属政党ハンガリー社会主義労働者党
ハンガリー人民共和国第5代閣僚評議会議長
内閣ナジ内閣
在任期間1956年10月24日 - 1956年11月4日
ハンガリー人民共和国外務大臣
内閣ナジ内閣
在任期間1956年11月2日 - 1956年11月4日
首相ナジ・イムレ
ハンガリー人民共和国第3代閣僚評議会議長
内閣ナジ内閣
在任期間1953年7月4日 - 1955年4月18日
ハンガリー共和国下院議長
内閣ディンニェーシュ内閣 (1947-1948)
ドビ内閣 (1948-1949)
在任期間1947年9月16日 - 1949年6月8日
首相ディンニェーシュ・ラヨシュ (1947-1948)
ドビ・イシュトヴァーン (1948-1949)
ハンガリー王国内務大臣
ハンガリー共和国内務大臣
内閣ティルディ内閣 (1945-1946)
ナジ内閣 (1946)
在任期間1945年11月15日 - 1946年3月20日
首相ティルディ・ゾルターン (1945-1946)
ナジ・フェレンツ (1946)
その他の職歴
ハンガリー臨時国民政府農業大臣
(1944年12月22日 - 1945年11月15日)
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ナジ・イムレ(1956年)
ナジ・イムレ(Nagy Imre, 1896年6月7日 - 1958年6月16日)は、ハンガリー人民共和国の政治家。同国第3・第5代閣僚評議会議長(首相:1953年 - 1955年・1956年)。
ソ連の衛星国であったハンガリー人民共和国において、スターリンの死によって失脚したラーコシ・マーチャーシュの後任として第3代閣僚評議会議長に就任し、経済政策の見直しに着手するも、ラーコシなどスターリン主義派の巻き返しに遭い一旦は辞任を余儀なくされる。その後、1956年のハンガリー動乱勃発時に復権して第5代閣僚評議会議長に就任し、一党独裁体制の解体・ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立表明といった民主化・自由化政策を推進したが、それを阻止しようとしたソ連軍が同年11月4日にブダペスト市内へ突入し、ハンガリー軍や市民義勇軍と市街戦を展開した。 同日中にはソ連を後ろ盾とするカーダール政権の誕生が宣言され、ハンガリー国内の抵抗も約1週間で鎮圧された。ナジ自身も国家転覆罪に問われ、2年後の1958年6月16日に処刑された[1]。 ナジはハンガリー西部のカポシュヴァールで日雇い農家の家に生まれた。石工見習いを経て第一次世界大戦に従軍、東部戦線に赴くがロシアの捕虜となりロシア革命を経験した。これを機縁として赤軍に参加し、(チェーカーの内部資料によれば)ニコライ2世の処刑にも関与したと言われている。 1919年にはクン・ベーラ率いるハンガリー評議会共和国の樹立に関与するが、ソ連に戻って農業調査にかかわりながらコミンテルンのハンガリー代表を務める。 戦後ソ連軍によってハンガリーが占領されつつある中、ナジはハンガリー共産党の一員としてハンガリー臨時国民政府に参加して農業大臣を務めた。共産党はハンガリー民主党を吸収してハンガリー勤労者党と改組され、ハンガリー人民共和国の指導政党となった。 1953年6月、ヨシフ・スターリンの死によって失脚したラーコシ・マーチャーシュの後任として首相に就任した。スターリンの死後、緩み始めたハンガリーの共産主義に対し、民衆は低賃金問題や食糧難に喘ぐ組織的なストライキを決行。
第二次世界大戦前
第二次世界大戦後からハンガリー動乱まで