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ナサニエル・ホーソーン
ナサニエル・ホーソーン(ナザニエル・ホーソーン、Nathaniel Hawthorne、1804年7月4日 - 1864年5月19日)は、アメリカ合衆国の小説家。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。 父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソーン(William Hathorne[1])はクエーカー教徒迫害に関与し、二代ジョン・ホーソーンはセイラム魔女裁判の判事を務めており、また、母方の祖先であるニコラス・マニングの姉達が近親相姦の嫌疑をかけられ迫害されると言う過去を持つため、善と悪や罪を扱った宗教的な内容の作品が多い。 彼が『緋文字』を発表し注目を集め始めていたころ、アメリカでは市場主義経済が発達し文学作品も「商品」としての色合いが強くなる。これにより文学の芸術的価値より大衆の評判が重要視され始めホーソーンはこのギャップに苦しむことになる。実際に彼の作品である『七破風の館』では登場人物にこの心境を投影してうわべの作品が大衆にはうける、といったことを訴えており、芸術家としての作家という考えを持っていた彼がその才能を存分に発揮できないジレンマや葛藤が認められる。ハーマン・メルヴィルは『Hawthorne and His Mosses』を発表し、ホーソーンを最も優れたアメリカ人作家に推している。
人物
経歴1841年に描かれた肖像画 1848年の写真
4歳で父を失い、母方の実家で育てられる。
ボウディン大学(友人に大統領となったフランクリン・ピアースや、詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローがいた)を卒業後、隠棲生活に入って小説の執筆に専念する。
1839年、生活が苦しいことからボストンの税関に就職、しかし翌々年退職。
1841年、超絶主義者(Transcendentalists)たちの生活共同体「ブルック・ファーム(Brook Farm)」(1841-1847)に参加。
1842年、結婚後、コンコードに移り、エマソンと交際する。再び文学に専念したが、1846年セイラムの税関に就職、また1849年に退職。
1850年『緋文字』を発表し注目される。
1853年、ピアースが大統領選挙に立候補する際に候補者略歴を執筆し、ピアースが選挙に勝って大統領に就任すると、ホーソーンはリヴァプール領事に任命された。
1857年退任し、イタリアなどに滞在して執筆を続ける。1860年にはイタリア滞在時の記録を基に『大理石の牧神』”The Marble Faun”を発表。
1860年帰国、しかし南北戦争の混乱や病気によりその後の作品は少ない。
1864年旅行中にニューハンプシャー州プリマスで客死。