ナカドーチェス市
City of Nacogdoches
愛称 : "Champ City"
位置
ナカドーチェス郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度36分14秒 西経94度39分22秒 / 北緯31.60389度 西経94.65611度 / 31.60389; -94.65611
ナカドーチェス(Nacogdoches [?nak??do?t??s])は、アメリカ合衆国テキサス州東部に位置する都市。ヒューストンの北北東約225km、ダラス・フォートワースの南東約290km、ルイジアナ州との州境から西へ約80kmに位置する。人口は32,996人(2010年国勢調査)[2]。ナカドーチェスに郡庁を置くナカドーチェス郡1郡のみから成る小都市圏は64,524人(2010年国勢調査)[2]の人口を抱えている。
ナカドーチェスは「テキサス州最古の町」と呼ばれ、その起源は1716年にスペインによって建てられた伝道所に遡る。1779年には、スペイン人交易者アントニオ・ギル・イバルボとその一団によって町が創設された。町の中心部に建てられた「オールド・ストーン・フォート」は、やがてアメリカ合衆国からテキサス辺境への玄関口となった。
また、ナカドーチェスはスティーブン・F・オースティン州立大学の大学町でもある。同学はナカドーチェスの地域経済・文化の両面において、市に大きな影響を及ぼしている。 ナカドーチェス・コンベンション・観光局は市のプロモーション資料において、ナカドーチェスを「テキサス州最古の町」と記述している[3]。また、ナカドーチェスには歴史上、所謂「テキサスの六旗」のほか、グティエレス・マギー探検隊、ロング共和国、およびフレドニア共和国の3つを加えた9つの旗が翻った[4]。
歴史
ナカドーチェスの「九旗」
「テキサスの六旗」
スペイン: 1519-1685年, 1690-1821年
フランス: 1685-90年
メキシコ: 1821-36年
テキサス共和国: 1836-45年
アメリカ合衆国: 1845-61年, 1865年以降
アメリカ連合国: 1861-65年
上記以外
グティエレス・マギー探検隊: 1812-13年
ロング共和国: 1819年
フレドニア共和国: 1826-27年
ナカドーチェスの中心部に建っていたオールド・ストーン・フォート(1923年頃) 1936年にテキサス独立100周年を記念してスティーブン・F・オースティン州立大学
10,000年前には、この地には既に人が住み着いていたとする痕跡が見つかっている。カドー族のネイティブ・アメリカンは、この地にネバンティンと呼ばれる村を創っていた[5][6]。その後19世紀初頭に至るまで、カドー族はこの地に住み着いていた。
1716年、スペインはこの地にヌエストラ・セニョーラ・デ・グアダルーペ・デ・ロス・ナカドーチェスという伝道所を建てた。これがこの地にヨーロッパ人が建てた最初の建物であった。また、ほぼ同じ頃、現在のルイジアナ州北西部、既にフランスが交易所を設けていたナケテシュの西20マイル(32km)の地点にも、ロス・アダエス伝道所(後のロス・アダエス砦)が建てられた。しかし、1760年代に入ると、フレンチ・インディアン戦争で敗北したフランスがこの地から撤退し、またスペインも伝道所の維持には費用がかかり過ぎると判断するようになった。やがて1772年、スペインはこの地のスペイン人入植者全てに対して、サンアントニオに引き揚げるように命じた。中には喜んで原野から脱け出した者もいたが、その一方で、兵士に家を追われた者もいた。41年間にわたってテキサス植民地の主都となっていたロス・アダエス砦もまた、このときに放棄された[7]。
1779年春、スペイン人交易者で、入植者のリーダーとして頭角を現し始めたアントニオ・ギル・イバルボ大佐は、グループを率いてナカドーチェスに戻ってきた。同年夏、スペインはナカドーチェスを「町」に指定し、それ故ナカドーチェスはテキサス最初の「町」となった。イバルボはこの新しい町の副総督として法規を制定し、街路を区画した。イバルボによるこの区画では、エル・カミノ・レアル(英名オールド・サンアントニオ・ロード、現テキサス州道21号線)およびラ・カジェ・デル・ノルテ(英名ノース・ストリート)の交差点が町の中心とされ、メインとなる街路には交易の拠点とするための石造の家屋が建てられた。今日「オールド・ストーン・フォート」として知られるこの家屋は、やがてアメリカ合衆国からテキサス辺境への玄関口としての役割を果たすようになっていった[3]。アントニオ・ギル・イバルボの像
1820年代に入ると、アメリカ人がナカドーチェスに入植し始め、テキサス初の英語紙を刊行した[8]。しかし、18世紀にナカドーチェスで初めて刊行された新聞紙はスペイン語のものであった。このスペイン語の新聞紙は、現在では地元の博物館で保存・展示されている。
1832年のナカドーチェスの戦いでは、連邦制を支持すべく入植者が一丸となって戦い、メキシコ軍を東テキサスから追放した[3]。旧ナカドーチェス大学校舎。1971年に国家歴史登録財に登録されている[9]。
ナカドーチェスへの初期のアングロサクソン系入植者の中でも、最も著名な者としてはトーマス・ジェファーソン・ラスクが挙げられる。ラスクはサンジャシントの戦いで戦功を挙げたテキサス独立戦争の退役軍人で、テキサス独立宣言の署名者でもあり、テキサス共和国においては陸軍長官を務めた。