ナウクラティス
[Wikipedia|▼Menu]

ナウクラティス
Να?κρατι?
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
ナウクラティスエジプトにおける位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度54分0秒 東経30度37分0秒 / 北緯30.90000度 東経30.61667度 / 30.90000; 30.61667
国 エジプト
等時帯UTC+2 (EST)
 ? 夏時間+3

ナウクラティス(ギリシア語: Να?κρατι?)は、古代エジプトナイル川デルタの西端にあった都市で、河口および後のアレクサンドリアから南東に72kmほどの位置にあった。古代ギリシアのエジプトにおける初期の植民都市であり、ギリシアとエジプトの美術・文化交流にとって象徴的交点となっていた。

発掘調査によって多数の美術品が見つかっていて、世界各地の博物館や美術館に収蔵されているが、同時に陶器に書かれた銘が最初期のギリシア文字で書かれているという点でも重要である。
背景

考古学的証拠から、エジプトでの古代ギリシアの歴史は少なくともミケーネ文明のころまで遡ると見られており、さらに古いミノア文明にまで遡ることも示唆されている。ただし、それほど古いギリシア植民都市の痕跡は見つかっていないため、その歴史は純粋に交易の歴史である。

ミケーネ文明が消滅し暗黒時代(紀元前1100年から750年ごろ)を経て、紀元前7世紀にギリシア文化が再び開花すると、中東と新たに交易が始まり、特にメソポタミアエジプトという2大文明圏と交流するようになる。ナウクラティスの位置を示した地図

紀元前7世紀エジプトでのギリシャ人の活動を記録した最古の文献はヘロドトスの『歴史』で、イオニア人とカリア人の海賊が嵐で難破し、ナイル川デルタ(付近)に漂着したという話を伝えている。エジプト第26王朝サイス朝)のファラオプサメティコス1世(紀元前664-610年ごろ)はその当時、他の下エジプトの支配者達と対立し、敗走していた。そしてプトの町のレートー神託を求めたところ、「海からやってくる青銅の人々」の助力を求めよという託宣が下った。難破した海賊達は青銅製の鎧を身につけていたため、ファラオは彼らの助力を求め、見返りとして報酬を提供すると申し出た。海賊達の加勢によってファラオは勝利を収め、報酬としてナイル川のペルシウム支流沿いに2区画の宿営地を与えた[1]
歴史
文献

紀元前570年、ファラオ・アプリエス(治世: 紀元前589-570年)は、その傭兵たちの子孫を中心とする3万人のカリア人とイオニア人を再び雇い、元将軍で反逆者となったイアフメスと戦わせた。彼らは勇敢に戦ったが敗北し、イアフメス2世(治世: 紀元前570-526年)がファラオとなった。イアフメス2世はギリシャ人傭兵の宿営地を閉鎖し、彼らをメンフィスに移し「同族であるエジプト民族からファラオを守る」親衛隊として雇った[2]

ヘロドトスによれば、イアフメス2世はこのギリシャ人達を好み、様々な報酬を与えた中で、ナウクラティスという都市への定住を許したのだという。ヘロドトスの記述では、ナウクラティスはギリシャ人が作ったのではなく、それ以前から存在していたと見られ、考古学調査でもそれが裏付けられている。この元々あった都市にはエジプト人、ギリシャ人だけでなく、フェニキア人も混在して住んでいたと見られている。その都市が紀元前570年以降間もなくギリシャ人に譲られたと考えられている[3]

イアフメス2世はナウクラティスを西洋との交易拠点および港に転換させた。これにはギリシャ人を1箇所に封じ込め、彼らの活動をファラオの制御下に置くという意味もあった。したがってナウクラティスは特定の都市国家の植民都市として始まったのではなく、シリア北部の交易拠点アル・ミナのようなエンポリウム(交易拠点)として始まった。

ヘロドトスによると、ナウクラティスには Hellenion という聖域(壁で囲まれた神殿)があり、次の9つのギリシア都市国家が共同で運営していたという[4]

イオニア人国家: キオスクラゾメナイ, テオスポカイア

ドーリア人国家: ロドスハリカルナッソスクニドス、ファセリス

アイオリス人国家: ミュティレネ

ミレトスサモスアイギナは Hellenion とは別の聖域を持っていた。したがって、ナウクラティスには少なくとも12のギリシア都市国家の人々が共同で暮らしていた。これだけでも珍しいが、かなり長い間続いたと判明している。
発掘

ナウクラティスはフリンダーズ・ピートリーが1884年から1885年に発掘して発見した。その後、E.A. Gardener が発掘を引き継ぎ、D.G. Hogarth が1899年から1903年にかけて発掘した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef