ナイロビ
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ナイロビ
Nairobi


左上から時計回りに中央ビジネス地区、ナイロビ国立公園、ケニヤ議会、ナイロビ市議会、ケニヤッタ国際会議場


市旗市章

愛称 : Green City in the Sun、Nai、Silicon Savannah
位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯1度17分 東経36度49分 / 南緯1.283度 東経36.817度 / -1.283; 36.817
歴史
建設1899年
行政
 ケニア
 ナイロビ
 市ナイロビ
知事ジョンソン・サカジャ(英語版)
(統一民主同盟 (UDA))
地理
面積 
  市域684 km2 (264.1 mi2)
標高1,661 m (5,450 ft)
人口
人口(2019年現在)
  市域4,397,073[1]
    人口密度  6,317.6人/km2(16,363人/mi2)
  都市圏9,354,580人
その他
等時帯東アフリカ時間 (UTC+3)
夏時間なし
市外局番020
公式ウェブサイト : ⇒www.nairobi.go.ke

ナイロビ(英語スワヒリ語: Nairobi)は、ケニア共和国首都で最大の都市[2]アフリカ有数の世界都市で、2019年の都市的地域人口は439万人である[3]赤道に近いが標高約1600mに位置し気候は比較的冷涼である[2]。主要な言語は、スワヒリ語英語。ナイロビ (Nairobi) という名前は、マサイ語で「冷たい水の場所(place of cool waters)」を意味するEnkare Nairobiに由来する。

東アフリカの中心的都市として、多くの国際機関が本部あるいはアフリカの代表部などを置く。なかでも国際連合は、国連環境計画 (UNEP) や国際連合人間居住計画 (UN-HABITAT) の本部をナイロビに置き、さらにこの2機関の活動を支援するため1996年国連事務局の四つの主要事務所の一つとして国際連合ナイロビ事務局を設立し、ナイロビを重要拠点都市のひとつとしている。

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第68位の都市と評価されており[4]、アフリカの都市ではカイロヨハネスブルグに次ぐ第3位であった。
歴史
建設

ナイロビは1899年モンバサウガンダの間に建設されていたウガンダ鉄道の給水および補修の拠点として建設された[2]。ここに拠点が置かれたのは、モンバサとヴィクトリア湖畔の町キスムの二つの重要な港町の中間地点にあること、高原にあり冷涼でさわやかな気候を持つこと、マサイ語の「冷たい水」の名の通りに清潔で豊富な水が得られること、街の西にある山地を越えるための機関車の連結地点として適していたこと、などが挙げられる。疫病の大流行と町の大火事の後、20世紀初頭に再建された。
白人の首都

その後、交通の要衝にあり、良い気候と水に恵まれ、さらに肥沃な農業地帯の中心に位置することから移住者が増え、1907年イギリス保護領であったイギリス領東アフリカの首都となった。この頃にはイギリス本国からケニアへの移住者が増加していたが、彼らは気候のいい高原部に集中して入植し、「ホワイト・ハイランド」(白人高原)を形成していったため、高原地帯の中心に当たるナイロビには多数の白人が居住するようになった。また、インド人黒人の居住区も同時に形成されていった。この都市はアフリカ人による歴史を持たず、最初から白人によって建設された都市であったため、特に白人が快適なように作られており、この三民族の居住区も明確に分けられ、市の西部に広々とした区画で作られた白人居住区に対し、市の東部に広がる黒人居住区は劣悪な環境の下に置かれた[5]1920年代には農産物加工やビール製造などの工業が発達を始め、これにより出現した工場労働者たちが都市に流入し、ナイロビはより発展のスピードを増していった。周囲で大農園を営む白人たちの中には本国で貴族や富裕層だったものも多く、ナイロビには小さな白人上流社会が出現した。カレン・ブリクセンが農園主としてナイロビ南西郊外に住んだのもこのころである。第二次世界大戦後の1948年にはイギリスの東アフリカ3植民地を統括する東アフリカ高等弁務府がナイロビに置かれ、ナイロビはケニアのみならず東アフリカのイギリス植民地全体の経済の中心となっていった。1950年に市制施行[2]1961年には東アフリカ高等弁務府は東アフリカ共同役務機構と改称したが、本部は変わらずナイロビに置かれていた。一方、第二次世界大戦後には独立運動が盛んになり、1952年にはケニア土地自由軍が結成され、マウマウ団の乱といわれる反英独立闘争を繰り広げた。
独立後

1963年には独立したケニア共和国の首都となった。独立後、ケニア政府は首都としてナイロビの積極的な開発を進め、ケニヤッタ国際会議場など数々の高層ビル群が建設された。ケニアが資本主義寄りの政策をとり、そのため他国に比べれば高い成長率を記録したこともあって、ケニア経済の中心であるナイロビには多国籍企業の支店が多く置かれ、アフリカ有数の大都市となった。また富の集積するナイロビを目指して農村部から人口流入が起き、人口が爆発的に増加した。東アフリカ共同役務機構を受け継ぎ1967年に発足した東アフリカ共同体は本部をタンザニアのアルーシャにおいたが、東アフリカの経済の中心地としてのナイロビの地位は揺らがなかった。1960年代から1970年代にかけては年率7%もの人口増加を記録し、その後も高い人口成長率は続いた。これにより街の規模は拡大したものの、雇用の拡大が追いつかず、深刻な失業問題が起き、流入人口のかなりがスラムへと流れていった。これにより特に街の東部を中心に広大なスラム街が生まれ、また1980年代より治安の急速な悪化を招いた。

1998年8月、ナイロビにあるアメリカ大使館がウサーマ・ビン=ラーディンの国際反米テロ組織アルカーイダにより爆破された。この事件では市民200人以上が死亡した。この場所は今では記念公園となっている[6]。詳細は「アメリカ大使館爆破事件 (1998年)」を参照

2007年12月から2008年2月にかけて、大統領選挙での不正疑惑からケニア危機が起き、ナイロビでも暴動が発生した[7]


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