ナイル・キニック
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ナイル・キニック(1939年頃)

ナイル・キニック・ジュニア(Nile Clarke Kinnick, Jr. 1918年7月9日-1943年6月2日 )は、アイオワ州エイデル出身のアメリカンフットボール選手。身長173cm、体重77kgの小柄な選手だった[1]アイオワ大学在学中の1939年にハイズマン賞を受賞した。第二次世界大戦が始まるとアメリカ海軍のパイロットとなった。訓練飛行中の1943年6月2日ベネズエラのパリア半島の沖合で事故死した。彼の死後1951年にカレッジフットボールの殿堂入りを果たし、1972年にはアイオワ大学のスタジアムはキニック・スタジアムと改称された。
生い立ちアイオワ州エイデルの位置

彼はナイル・キニック・シニアとフランシス・クラークの間に生まれた。彼には二人の弟がいた。彼の母方の祖母はアメリカ独立戦争で活躍した将軍、ナサニエル・グリーンの遠い親戚だった。また母方の祖父のジョージ・クラークは1878年にアイオワ大学を卒業、1912年から1916年までアイオワ州知事を2期務めた。

両親が教育熱心でクリスチャン・サイエンスを学んだ彼は規律、ハードワーク、高いモラルを身につけた。常に自己改善を考えるようになり弱点を強さとするように取り組むようになった。

スポーツにも興味を持つようになり後にMLB野球殿堂入りを果たすボブ・フェラーと野球をする機会もあった。中学時代はアメリカンフットボール、バスケットボールの花形だった。

高校1年の時、彼のチームはフットボールで無敗でシーズンを終えた。またバスケットボールでは485得点をあげて地区の決勝試合まで進んだ。高校2年が過ぎるとの時彼の家族はネブラスカ州オマハに引っ越した。高校3年の時、彼は州のファーストチームにアメリカンフットボールとバスケットボールのそれぞれで選ばれた。彼は弟のベンソンと共にバスケットボールでチームを州のトーナメントで3位まで導いた。
大学時代

彼は優秀な学生であり優秀なリーダーであった。1935年に高校を卒業することはできたが両親は大学に入るための準備を十分にするために卒業を1年遅らせた。ミネソタ大学ツインシティー校に進学することも考えたがアイオワ大学を選んだ。

アイオワ大学の成績が彼を引きつけたものかもしれない。高校のコーチだった Verle Davis は「キニックは下位の学校に行きたがっていた。ミネソタ大学は上位校だった。」と発言している。

どん底状態だったアイオワ大学(1930年から1938年までに22勝しかあげられずビッグ10の大学相手では5勝に留まった[2]。)に進学することで自分自身の弱さに立ち向かおうとしたのではないかと見られる[3]

オジー・ソレムに率いられたフットボールチームで1年次から彼は共同キャプテンとなり、ランとパスで2つのタッチダウンをあげた。また野球とバスケットボールにも1年次に出場した。1936年シーズン終了と共にソレムはアイオワ大学を離れてシラキューズ大学に移り、新ヘッドコーチとして Irl Tubbs がやってきた。2年次に彼は活躍したがチームはなかなか勝てなかった。

その年のパシフィックコースト・カンファレンスチャンピオンとなるワシントン大学との試合に0-14で敗れた後、ブラッドリー大学との試合でその年唯一の勝利をあげた。チームは1勝7敗であったにも関わらず相手チームはキニックに注目した。彼はカンファレンスチーム(カンファレンスのベストメンバー)に選ばれ[4]、アイオワ大学がウィスコンシン大学に1タッチダウンしかあげられず6-13で敗れた後、前ヘッドコーチだったソレムは「キニックはアイオワ州の歴史上最高の選手だと信じているし今後もそうであろうと思う。」[5]

1937年、アイオワ大学はビッグ・テン・カンファレンス(ビッグ10)内での5試合全てに敗れた。最も僅差となった試合はミシガン大学に6-7で敗れた試合でありキノックは74ヤードのパントリターンタッチダウンをあげていた。

スポーツライターのベートマグレーンは次のように書いている。「私はアイオワが勝った試合を思い出すことができない。みなさんは1度か2度コイントスで勝つこともあるだろうと思うでしょうが。」アイオワ大学は13試合コイントスに勝てなかった。1937年にはキニック1人だけにスポットがあてられてビッグ10のオールファーストチームに全米サードチームに選ばれた。

彼はバスケットボールも続けた。1937-38シーズン、大学の2番目の得点源となった彼はビッグ10の中でも15位の得点を2年次にあげた。

夏には3番目のスポーツとなる野球を行った。3年生となる1938年のフットボールシーズン開幕前に足首に故障を抱えた。痛みをこらえて彼はプレーしたが十分な活躍を見せることができなかった。彼のクリスチャンサイエンスの信条はチームドクターからの十分な医療行為を受け入れることを許さず信仰の強さで治癒させるものと信じていた[6]

1938年、彼はビッグ10の表彰選手とならなかった。後に彼が足首を骨折したままプレイしたことが明らかになった。多くの人々はクリスチャンサイエンスのせいで彼は十分な医者の治療を受けなかったのではとささやいた。しかしチームメートたちは彼が自分の足首を異なる方法で固定しており、他の誰にもさわらせたくなかったからだと述べた。

彼は学業に専念するためにバスケットボールの試合には出ないことを宣言した。1勝6敗1分に終わったシーズン終了後、Tubbs コーチは解雇されてエディー・アンダーソンが新ヘッドコーチに就任した。
1939年シーズン詳細は「en:1939 Iowa Hawkeyes football team」を参照

1939年シーズン開幕前、彼はこう書いている。「3年間、いや15年間フットボールの最終年度のための準備をしてきた。アンダーソンヘッドコーチに本物のフットボール選手がどんなものか見せて見たい。」[7]

アンダーソンコーチはすぐにキニックのことを気に入った。他の選手に対しては姓で呼んだがキニックに対しては「ナイル」といつも呼んだ。

アンダーソンコーチは1939年のシーズン、先発選手が十分な時間役割を果たすことができればチーム成績が向上することを予感していた。開幕戦前、地元紙であるDes Moines Registerは「鉄人たちがアイオワのフットボールを変えるかもしれない」といった記事を載せた[8]。1939年のチームは "Ironmen"(鉄人)と呼ばれ大学史上最高のチームとなった。そして多くの選手たちが全試合に出場した。

1939年アイオワ大学はシーズン成績を6勝1敗1分としてAPランキング9位で終えた。キニックはわずか31回のパスで638ヤードを獲得し、11のタッチダウンを決めた。そしてランでも374ヤードを獲得した。またキックオフリターンでは全米トップの337ヤードを稼ぎインターセプトも8回行った。チームのタッチダウン19のうち、彼があげたタッチダウンは16(パスで11、ランで5)、130得点のうち107得点にからんだ。また420分中402分に出場した。(最終戦のノースウェスタン大学戦終盤肩を痛めて退場した[4]。)大学記録を14塗り替え、そのうち65年たった時点でも6個の記録が破られていない。

このシーズンのノートルダム戦では7-6で勝利したが彼のタッチダウンおよびドロップキックによるエクストラポイントがチームがあげた全得点であり、16回のパントを蹴り平均45.7ヤード(最長63ヤード)の記録を残し番狂わせを演じた[4]

シーズン終了後、彼は多くの賞を受賞した。カレッジフットボールのオールアメリカンファーストチームに選ばれ、AP通信による最優秀アスリートの投票ではジョー・ディマジオバイロン・ネルソンジョー・ルイスを破り満場一致で選出された。ビッグ10のMVP、ウォルター・キャンプ賞、マクスウェル賞などを受賞した。1939年11月28日にはフットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞を受賞した。1939年に彼が受賞したハイズマントロフィーはアイオワ大学の殿堂に飾られている。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにハイズマン賞受賞時のスピーチの原文があります。
1939年以後
将来計画

4年次に彼はアイオワ大学の学生会長に選ばれた。GPAは3.4でありアイオワ大学のファイ・カッパ・サイメンバーとなった。経済学を学んでいた彼はファイ・ベータ・カッパ・クラブに選ばれた30人の学生の1人となった。ウィキソースに大学卒業時のスピーチの原文があります。

カレッジフットボールのオールスターゲームに彼はトップの得票を得て出場しアンダーソンヘッドコーチもコーチとして選ばれ、彼らはアイオワ大学のOBであるジョー・ローズのいるNFLチャンピオンのグリーンベイ・パッカーズと対戦した。


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