ナイジェル・マンセル
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ナイジェル・マンセル
Nigel Mansell
CBE
マンセル (2015年メキシコGP
基本情報
フルネームナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル
Nigel Ernest James Mansell
略称表記MAN
国籍 イギリス
イングランド
出身地同・ウスターシャー州アップトン・アポン・セバーン
生年月日 (1953-08-08) 1953年8月8日(70歳)
F1での経歴
活動時期1980-1992,1994-1995
所属チーム'80-'84 ロータス
'85-'88,'91-'92,'94 ウィリアムズ
'89-'90 フェラーリ
'95 マクラーレン
出走回数191 (187スタート)
タイトル1 (1992)
優勝回数31
表彰台(3位以内)回数59
通算獲得ポイント480 (482)
ポールポジション32
ファステストラップ30
初戦1980年オーストリアGP
初勝利1985年ヨーロッパGP
最終勝利1994年オーストラリアGP
最終戦1995年スペインGP
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ナイジェル・マンセル
Nigel Ernest James Mansell
表彰1993 CART インディカー・ワールドシリーズ チャンピオン
1993年 CART インディカー・ワールドシリーズ ルーキーオブザイヤー
1993年 英国王室自動車クラブ 金メダル
1993年 ESPY賞 最優秀ドライバー
インディカー・シリーズでの経歴
年の間31レース出場
チーム5.ニューマン・ハース・レーシング
最高位1位 (1993)
初戦1993年サーファーズ・パラダイス (オーストラリア)
最終戦1994年ラグナ・セカ
初勝利1993年サーファーズ・パラダイス
最終勝利1993年ナザレス・スピードウェイ

優勝数表彰台PP
51311


ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル(Nigel Ernest James Mansell, CBE 1953年8月8日 - )は、イングランド出身の元レーシングドライバー。

2021年現在、F1CARTのチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。

1990年には大英帝国勲章・オフィサー章(OBE)を、2012年には同・コマンダー章(CBE)を受勲。2005年国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame )入り。

日本での愛称は「マンちゃん」、「荒法師」、「暴れん坊将軍」。
人物

アラン・プロストネルソン・ピケケケ・ロズベルグアイルトン・セナらと並んで、1980年代のF1を代表する名ドライバーの1人。特に1980年代後半から1990年代初頭にかけてライバル関係にあったピケ、プロスト、セナとは、まとめて「四強」もしくは「F1四天王」と呼ばれることもある。

F1歴代7位(2020年現在)の通算31勝を記録するも、ドライバーズチャンピオン獲得は1992年の1度のみに留まった。それ以前の、特に1986年と1987年には初のワールドチャンピオンをあと一歩まで手繰り寄せながらも、タイヤバーストなどの不運や自らのミスに泣きランキング2位となりチャンスを逃がしたことから、母国の先輩スターリング・モスになぞらえ「無冠の帝王」と称された時期もある。このフレーズはマンセル本人も気に入り自称もしていた[1]

イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバーである。豪快かつ大胆なドライビングスタイルと、喜怒哀楽に富む人柄が人気を博し、「大英帝国の愛すべき息子」(Great Britain's lovely son )と呼ばれた。
プロフィール
F1以前

イングランドウスターシャー州に生まれ、成人するまでを過ごした。マシュー・ブルトン・カレッジで工学を学び、卒業後はフルタイムのレーシングドライバーに転身するまでルーカス・エンジニアリングで航空宇宙技術者として働いた[2]

幼い頃、母親の運転する車に乗ってスピードの魅力を知る(当時は制限速度がなく、母親は公道を時速160kmで運転したという[3])。また、父親も趣味でカートレースに出場していた[3]。マンセルは1963年(10歳)よりカートレースを始め、1976年(22歳)よりフォーミュラカーレースに挑戦。イギリスフォーミュラ・フォード1600(1977年チャンピオン)、イギリスF3を経て、1980年にF1のロータスのテストドライバーと、F2ラルト・ホンダチームのドライバーとなる。下積み時代は活動資金に恵まれず、フォーミュラ・フォードでは頸椎を骨折、F3では1979年オールトンパークでのレース中にアンドレア・デ・チェザリスの運転を原因とする事故に巻き込まれて脊椎を2箇所損傷する大事故を経験している。
ロータス時代ロータス・95Tをドライブするマンセル(1984年)

1980年のF1第10戦オーストリアグランプリにて、ロータスからスポット参戦でF1デビュー。デビュー戦では燃料タンクからガソリンがしみ出しており、それがレーシングスーツを通して背中に炎症を作ったが、その痛みに耐えてマシンを走らせた。この時は翌年のロータスのシートは仮契約の状態だったが、デビュー戦のファイトあふれる走りがチーム監督のコーリン・チャップマンに非常に強い印象を与え、翌年からレギュラードライバーに昇格する。1981年の第5戦ベルギーグランプリにてジル・ヴィルヌーヴとの接戦を制し初入賞、3位表彰台に立った。

しかしロータス在籍時のマンセルはエリオ・デ・アンジェリスの陰に隠れ、後に「暴れん坊」といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチャップマンが1982年12月に急逝してしまい、その後を継いだピーター・ウォーとは非常に折り合いが悪かった。チャップマンが遺したアクティブサスペンションの開発を担当し、1983年の前半戦はアクティブカーの92で出走した。

1984年の第6戦モナコグランプリでは、予選2位から初めてトップを走行するが、25周目[4]に大雨の中コース上の白線に乗ってスリップし、ガードレールにぶつかりリタイアした。第9戦アメリカグランプリダラス)では、自身初のポールポジションを獲得したものの、決勝レースではチェッカー目前で壁に当たってトランスミッションを壊して停止してしまう。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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