ドーム
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この項目では、円形屋根について説明しています。その他の用法については「ドーム (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ドーム

ドーム(: dome)あるいは丸屋根(まるやね)は、建築における屋根の形式のひとつで、半球形をした屋根のことである。
概要

ドームは、アーチの頂部を中心として水平に回転させた形状をしている。構造的にもアーチと類似しており、自重やその他の荷重をドームの面内に沿って下部に伝えるため、面外に屋根を支える支柱や壁が不要である場合が多い。このため、大空間を覆う屋根として適しており、かつ、構造上、高さが必要で荘厳な空間が形成されることから、歴史的に、古代ローマパンテオンをはじめとする宗教建築に多く用いられてきた。

日本語では、丸(円)屋根(まるやね)、丸(円)天井(まるてんじょう)、穹窿(きゅうりゅう)等とも言う。

イタリアの教会堂に対しては、イタリア語のクーポラ(cupola)という呼び方が用いられることがある。クーポラつまりキューポラとは、屋根上部に突出した、屋根よりは小さい構造物のことである。イタリアの大きな教会堂の多くは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のようにドーム頂上部に突出したクーポラを持つため、クーポラを持つ教会堂そのものをクーポラと呼ぶようになった。クーポラを持たない教会堂はドゥオーモと呼ぶ。

日本ではかつて溶銑炉のことをキューポラと呼んだ。これは鋳物工場の屋根から突出している溶銑炉の排煙筒をキューポラと呼んだため、それがそのまま溶銑炉そのものの呼称となった。

もともと「ドーム(dome)」という言葉は、ラテン語の「家(domus)」という言葉を語源とする[1]

英語 dome はイタリア語で教会堂のことを duomo (ドゥオーモ、ドゥオモ)と呼ぶことに影響を受けている。どちらも語源はギリシア語 domos (家、住居)であり、イタリア語の用法は元来「神の家」の意だった。ドームという語が、上方に湾曲した半球や紡錘形の屋根、あるいは天井を示す建築用語として用いられるようになったのは、一七?一八世紀のフランスとイギリスにおいてである[2]

ドームと同様にアーチを基本形とした屋根で、アーチを水平に押し出した形状のかまぼこ形の屋根は、ヴォールトと呼ばれる。
歴史
初期の原始的ドームニムルードにあったアッシリアの薄浮き彫りの図。背景にドーム建築が見える。

その地方の材質でドームを建築した文化は先史時代から現代まで散発的に多数存在している。世界初のドームが建設された時期は不明だが、知られている最古のドーム構造物は、1万5千年前から2万年前のマンモスの牙と骨格で作った小さな住居と言われている。1965年、ウクライナのMezhirichという村の農民が地下倉を掘っていて、そのような構造物を4つ発見した[3]

ニムルードにあったアッシリア薄浮き彫りにはドーム建築が描かれたものがあるが、その古代都市のそのような構造物の名残は、日干しの泥煉瓦で作られていたために長期間残存しない性質があり、まだ存在が確認されていない[4]アパッチ族のウィグワム。Edward S. Curtis 撮影(1903年)

真のドーム建築技術を使い泥煉瓦でドームを建築した例は、ハラフ文化(紀元前6100年から5400年ごろ)とウバイド文化(紀元前5300年から4000年ごろ)のメソポタミアの Tell Arpachiyah に見られた[5]。ローマ時代にドームを記念碑的に建築するようになるまで、中東では貧しい人々の住居として小型の持ち送り積みのドームを普通に使っていたと見られている[6]

オマーンやポルトガルで、迫り出しアーチの技法で建造されたドーム型の建造物や蜂窩状墳墓 (Beehive tomb) が見つかっている。ただし、オマーンの構造物とヨーロッパの構造物の類似性は偶然と考えられている。オマーンの建造物は地上に建てられたもので、紀元前3千年ごろのものである[7]ミケーネ墳墓であるアトレウスの宝庫は、土で覆われたより大きなドーム建造物だが、紀元前1250年ごろのものである。

ネイティブ・アメリカンが造ったウィグワムは、木の枝をアーチ状に曲げて骨組みを作り、草や獣皮で覆ったものである。中央アフリカのピグミーも、マンゴーの葉を使って同様の小屋を造る[8]。もう1つの例として、イヌイットなどが圧雪ブロックなどを使って造るイグルーがある。
ローマとビザンティンのドームジョバンニ・パオロ・パンニーニの絵。ローマのパンテオンが教会に転換された後の様子を描いている。

ローマ人は、木、石、煉瓦、陶器、コンクリートなどを使ってドームを建造した。ローマで最も有名で最大のドームはパンテオンで、元々は神殿として建てられた。2世紀に建造され、分厚い円形の壁または円形建物 (rotunda) の上に鉄筋のないコンクリートのドームが載っている。ドームの頂上部分には丸い開口部があり、これを眼窓 (oculus) と呼ぶ。眼窓には採光と換気の役割がある。眼窓までの高さと建物の内側の直径は同じで、43.3mである。千年以上、世界最大のドームだった。

ローマ人はドームを縦に半分に切ったような半円ドームも採用し、非宗教的(後には教会)なバシリカ壁がんエクセドラに使った。後期古代にはエクセドラがアプスに発展し、ロマネスク建築ビザンティン建築でそれぞれ独自に発展していった。

住宅建築におけるローマ式ドームの最初の例は、ネロ(紀元54年-68年)のドムス・アウレア(黄金宮)である。同時代の資料によれば、食堂の天井が木製のドームになっていて、天井から香水を霧状に吹くようになっていたという[9]。ネロの死後、この宮殿の敷地はすぐさま公共の建物に使われ、公共浴場やコロッセオが建てられた。

キリスト教以前のローマ時代のドーム建築は、浴場、別荘、宮殿、墓がほとんどだった。パンテオンも神殿としての性格も具えていたが、アグリッパ浴場の一部として建てられたものだった[9]西ローマ帝国末期にキリスト教信仰が隆盛をむかえ、ドームは宗教建築の象徴となり、東ローマ帝国で現世的建築にドームが使われ続けるようになった。通路が直角に交わるところにドームを構築することが多くなっていった。トルコのスタンブールで修復中のアヤソフィアのドーム

ドームは四角い空間を土台として直接載らないため、角の部分にテクニックが必要だった。当初、角に迫り出し構造やアーチ構造を使い、これを入隅迫持 (squinch) と呼ぶ。円形のドームの底面と四角形の土台の隙間部分を別の球面で覆う穹隅 (pendentive) が発明され、入隅迫持技法を置き換えていった。アヤソフィアは穹隅を使った初期の有名な建築物である。穹隅は、ビザンティンルネサンスバロック建築でよく使われた。

穹隅がドーム自体と同じ球面を構成する「単純ドーム」は滅多に見られない[10]。アヤソフィアのような「複合ドーム」の方が一般的で、穹隅はドームよりも大きな球面の一部だが、その球面の中心はドームの中心よりも低い位置にある。

アヤソフィアは537年に完成したとき世界最大の教会で、1520年にセビリア大聖堂が完成するまで、世界一の座を守り続けた。最大の中央のドームは幅が31.24m、床面からの頂上の高さが55.6mで、幅はパンテオンより4分の1狭いが、高さは4分の1高い。パンテオンとは異なり、頂上に眼窓はなく、ドームの基部に環状に窓が並んでいる。さらに中央ドームの両側に同じような半円ドームがある。

帝国が領土と勢力を失っていくと、ビザンティン建築でのドームは徐々に小型化していった。十字型に交わった建物の上にドームをかける内接十字型設計が中期以降の建物に多く用いられるようになった。穹窿胴 (tholobate) と呼ばれる窓のある円形の壁の上にドームを載せる形が標準となっていく。穹隅、穹窿胴、ドームの組合せによる建築はルネサンス期まで続いた。
中東と西欧のドーム

224年にアルダシール1世の建設したアルダシール宮殿の遺跡でわかるように、今日のイランの地にあったサーサーン朝はドームを造っていた。サーサーン朝の建築は、メソポタミアのドーム建築の伝統を受け継いだものと見られる[4]エルサレムの岩のドーム

西ローマ帝国が滅亡してから44年後の520年、東ゴートテオドリックは、イタリアのラヴェンナテオドリック廟に建設した。


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