ドーバー_(ニューハンプシャー州)
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ドーバー

Dover
ドーバー中心街
愛称: 要塞都市
The Garrison City
ストラッフォード郡内の位置(赤)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度11分41秒 西経70度52分30秒 / 北緯43.19472度 西経70.87500度 / 43.19472; -70.87500座標: 北緯43度11分41秒 西経70度52分30秒 / 北緯43.19472度 西経70.87500度 / 43.19472; -70.87500
アメリカ合衆国
ニューハンプシャー州
ストラッフォード郡
設立1623年
法人化(町)1623年
法人化(市)1855年
政府
 ? 市マネジャーマイク・ジョイアル
 ? 市長ディーン・トレフェセン
面積
 ? 合計29.0 mi2 (75.2 km2)
 ? 陸地26.7 mi2 (69.2 km2)
 ? 水域2.3 mi2 (6.0 km2)  7.96%
標高50 ft (15 m)
人口(2020年)
 ? 合計32,741人
 [1]
等時帯UTC-5 (東部標準時)
 ? 夏時間UTC-4 (東部夏時間)
郵便番号03820-03822
市外局番603
FIPS code33-18820
GNIS feature ID0866618
ウェブサイト ⇒www.ci.dover.nh.us

ドーバー (: Dover)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の都市。ストラッフォード郡郡庁所在地である。人口は3万2741人(2020年)。大西洋岸の港町。市内にはウェントワース・ダグラス病院、ウッドマン・インスティチュート博物館、ニューハンプシャー州子供の博物館がある。
歴史
開拓

歴史家のジェレミー・ベルナップに拠れば、この地域はアベナキ族インディアンによって「ウィコハメット」と呼ばれていた。最初に地域を探検したとされるヨーロッパ人は、1603年にイングランドブリストルから来たマーティン・プリングだった。1623年、ロンドンの魚屋ウィリアム・ヒルトンとエドワード・ヒルトンの兄弟がヒルトンズ・ポイントとして町を設立した[2]。ドーバーはニューハンプシャー州で最古の恒久的開拓地であり、国内では7番目だった。州内に当初作られた4タウンシップの1つであり、以前はダーラム、マッドベリー、ニューイントン、リーの町を含んでいた。またサマーズワースとロリンズフォードの町も含んでおり、これらはニューイチャワノック川(現在のサーモンフォールズ川)から採ってインディアンがニューイチャワノックと呼んでいた所だった。

ピスカタカ川とコチェチョ川およびベラミー川が合流する点近くで、ヒルトン兄弟が上陸しており、そこは今日ドーバーポイントのヒルトン公園となっている。この兄弟はロンドンのラコニア会社が派遣した者達であり、ピスカタカ川周辺で植民地と漁業基地を設立することが意図されていた。しかし、1631年になっても家が3軒あるだけだった。

1633年、ニューイングランドへの入植を計画したイングランドのピューリタン集団が、コチェチョ・プランテーションを購入した。その集団にはセイおよびセレ子爵、ブルック男爵、ジョン・ピムが入っていた。彼等はアメリカにおける植民地化を奨励しており、その年に主にブリストルから多くの開拓者がヒルトンズ・ポイントに到着した。彼等は町の名をブリストルと改名した。近くの岡の上に濠で囲まれた集会所を建設し、その東に監獄を建てた。
法人化

この町は新しい総督のジョージ・バーデット神父によって1637年にドーバーと呼ばれることになった。1639年にトマス・ラーカムが到着し、説教師を務めていたデヴォンのノーザムに因んでノーザムと改名した。しかしセイおよびセレ子爵の集団がこの地とコネチカットのセイブルックの開拓地に関する興味を失った。彼等の意図はニューイングランドへで毛嫌いされていた世襲の貴族制を植民地に持ち込むことだった。結局このプランテーションはマサチューセッツに売却され、再度ドーバーと改称された。これはピューリタンに抵抗したイングランドの法律家ロバート・ドーバーに因んだ可能性が強い[3]
コチェチョ虐殺

開拓者は多くの樹木を切って、ガリソンズと呼ばれた丸太小屋を建設した。町の人口と事業の中心はドーバー・ポイントから滝のあるコチェチョに移った。そこでは滝の落差34フィート (10.4 m) で工業用の動力を引き出すことができた。コチェチョとは、「急な泡を浮かべた水」を意味している。リチャード・ウォルドロン少佐がここに入植して、製材所と製粉所を建てた。

フィリップ王戦争が終わったときに、マサチューセッツ湾植民地民兵から逃れてきた多くのインディアンが、ドーバーに住んでいたアベナキ族インディアンの所を退避地にした。マサチューセッツ湾植民地の民兵はウォルドロンにインディアンを攻撃して、避難民戦闘員を民兵隊の方に向けさせるよう命じた。ウォルドロンは激戦無しにインディアンを捕まえることができると考え、1676年9月7日、総勢約400人のインディアンを招いた。その半分は地元のインディアン、他の半分は民兵との戦闘に参加した避難民だった。これは策略であり、インディアンが発砲した後で、ウォルドロンは彼等を捕虜にした。このもてなしの場を破るように強制されたことに激しく抗議した避難民戦闘員と地元インディアンをウォルドロンはボストンに送り、そこでは7、8人が暴動の罪で有罪となり、処刑された。残りは「外国」、大半はバルバドスに奴隷として売却された。地元のインディアンは釈放されたが、当時インディアが価値を認めていた名誉ともてなしの規則を全て破ったウォルドロンの欺瞞を許すことは無かった。ウォルドロンは1683年にニューハンプシャーの首席判事に指名された。

13年が過ぎ、開拓者達がこの事件を忘れてしまったと考えている頃にウィリアム王戦争が起こり、新しく結成されたワバナキ連邦のインディアンが到着した。市民がその心配をウォルドロンに告げると、ウォルドロンは彼等に「あっちに行ってカボチャを植えてろ。インディアンの対応はする」と答えた[4]。1689年6月27日、ガリソン家屋5軒のそれぞれに2人のインディアン女性が現れ、火の側で寝る許しを求めた。1軒を除く家屋がそれを許可した。翌日早朝のまだ暗い頃、その女性達がドアを開けて、密かに町に入ってきていたインディアン男性を中に入れた。ウォルドロンは抵抗したが、斧で気絶させられ、テーブルの上に置かれた。インディアン達は食事をした後で、ウォルドロンの腹をナイフで切り裂き、それぞれが「私の恨みを消した」と言った。家屋5、6軒が燃やされ、製粉所も焼かれた。町の全人口のちょうど4分の1にあたる52人の開拓者が捕獲され、あるいは殺された[4]

1723年8月と9月のラル神父戦争のときメイン州ソーコとこのドーバーをインディアンが襲撃した[5]コチェチョ滝、1910年頃
工場用地

コチェチョ川の滝は船舶が航行可能な上限にあり、19世紀の産業革命ではドーバーに大いに貢献した。ドーバーの綿糸工場は1812年に法人化され、1823年に拡張されてドーバー製造会社となった。1827年、コチェチョ製造会社が設立され、1829年にはドーバー製造会社を買収した。大きな煉瓦造り工場が鉄道で結ばれ、中心街に建設された。ドーバーは1855年に市として法人化され、国内の繊維産業をリードしていた。その工場は1909年にマサチューセッツ州ローレンスのパシフィック・ミルズに買収され、1913年に捺染工場を閉鎖したが、紡績と織物製造は続けた。しかし世界恐慌のとき、ニューイングランドで水力に頼ることができなくなった繊維工場は、より安価な操業条件が期待できる南部州に移動するか、単純に事業を閉鎖するかした。ドーバーの工場は1937年に閉鎖され、競売に掛けられて、ドーバー市が54,000米ドルで落札した。他の応札は無かった。コチェチョ・フォールズ・ミルワークスは現在、技術や政府のサービス会社およびレストランなどがテナントとして入っている[6][7]
古い絵葉書

中央広場、1905年頃

ガッピー邸、1910年頃

オールド・コーナー、1892年頃

公共図書館、1907年頃

パシフィック・ミルズ、1912年頃

昔の煉瓦造り校舎、1910年頃、パインヒル墓地近くにあった


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