ドードーナ
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ドードーナΔωδ?νη
ドードーナのブーレウテリオン(英語版)
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別名ドドナ、ドドネ
所在地ギリシアイピロス地方、ヨアニナ県、ドドニ
地域イピロス
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度32分47秒 東経20度47分16秒 / 北緯39.54639度 東経20.78778度 / 39.54639; 20.78778座標: 北緯39度32分47秒 東経20度47分16秒 / 北緯39.54639度 東経20.78778度 / 39.54639; 20.78778
種類聖域
歴史
完成紀元前二千年紀
放棄391?392年
時代ミケーネ文明 から ローマ帝国
文化ギリシア, 古代ローマ
追加情報
状態廃墟
所有者公共
一般公開可能

ドードーナ(ドーリス方言: Δωδ?να, D?d?na)、あるいはドードーネー(アッティカ・イオニア方言: Δωδ?νη[1], D?d?n?)は、ギリシャ北西部イピロスに存在した最古の古代ギリシア神託所である。日本語表記においてはドドナ[2]、ドドーナ[3]、ドドネとも。ヘロドトスによればおそらくその起源は紀元前2千年紀にまで遡るとされる。古代の吟遊詩人であるホメーロスはドードーナをゼウスの神託所だとした。古代ギリシアの主要なポリスから離れた遠隔地に位置していたため、デルポイの神託所に次ぐ2番目の位階に留まった。

アリストテレスはドードーナ周辺の地域はヘラスの一部であり、ヘレネスの起源となる場所であるとした[4]。神託所は初めはテスプロティア人(英語版)の支配下にあったが、後にモロシア人(英語版)の手に渡った[5]古代ローマにおいてキリスト教が隆盛するまで、宗教的に重要な聖域であった。

ドードーナの神託の板は2023年に世界の記憶に登録された[6]
説明

古典古代の時代に記された様々な記録によれば、巫女神官たちは神聖な洞窟においてオークカシあるいはブナ)の葉のざわめく音によって、正しい行動をとるための判断をしていた。新しい解釈では、神託の音は、オークの枝に吊られた青銅製の風鈴に似たものが風で揺れたときに発する音であるとされる[7]

ニコラス・ハモンド(英語版)に依れば、ドードーナの神託所は(他の場所ではレア[要曖昧さ回避]あるいはガイアとも識別されるが、この地ではディオーネーと呼ばれた)地母神へ捧げられたものであった。この神は時を経るうちにいくつかの部分がギリシア神話の神格であるゼウスへと取り込まれ、ギリシア神話の一部となった[8]
歴史
初期の歴史ドードーナに捧げられた槌、ブロンズ製、紀元前7世紀頃。ルーブル美術館所蔵

この神託所に刻まれた最古の碑文はおよそ紀元前550-500年のものである[9]。1世紀以上に渡る考古学的発掘調査によって、ミケーネ文明初期の遺物が復元されており[10] 、その多くはアテネ国立考古学博物館で、またいくつかは近隣のヨアニナの考古学博物館で展示されている。

ドードーナにおける神事は後期青銅器文明(ミケーネ文明)の頃にはある程度の形式が確立されていた[11]。ミケーネ文明の後の時代(暗黒時代)にはドードーナが活動していた記録はほとんど残されていないが、南ギリシアからの青銅製の奉納品(三脚など)よりアルカイック期(紀元前8世紀)にはドードーナと南ギリシア間で再び繋がりがあったことがわかっている[11]。考古学者たちは、紀元前8世紀中に神託所に捧げられたイリュリア人による奉納品などの品々もまた発見している[12]。紀元前650年まで、ドードーナは主に北方の部族の宗教と神託者たちの中心であったが、650年以降は南方部族にとって重要なものとなった[13]

ドードーナにおいて、ゼウスは「ナイオスのゼウス」や「ナオス」(テメノス[14]においてオークの木の下にいる泉の神。ナーイアスも参照)[15]また「助言者ゼウス(英語版)」[16]として礼拝されていた。プルタルコスは、ドードーナでのユーピテル(ゼウス)への礼拝はデウカリオーンピュラーによって、おそらくは大洪水の後に掲げられたと記述している。

最も古いドードーナへの言及はホメーロスによってされており、ここではゼウスについてのみ述べられている。『イーリアス』(紀元前750年頃)においてアキレウスは「ゼウス神よ、またドードーネーの、またペラズゴスの、はるかな宮においでになり、寒風すさむドードーネーをお治めの大神さま」[17]と祈りを捧げている。建物については何も言及されておらず、セロイ[18]と呼ばれる神官が足を洗わず地面に寝ていたとされる[19]。ホメーロスは巫女について言及していない。

神託所はオデュッセウスの旅路の一部でも登場しており、ドードーナを訪れた物語が残されている。『オデュッセイア』では「(略)ご本人はドドネへ出かけられたとの話でした。つまりそこにある神様の高く茂ったオークの木から、ゼウスの御神慮をうかがって(略)」[20]と記されている。これはオデュッセウスが神託所でイタケ島への戻る際、公然と帰るか秘密のうちに帰るかを尋ねたものであった[21]

いくつかの研究者たちは、ドードーナはもともとは巫女たちが地母神へと臨む神託所であったとしている。この地母神は他所ではレアーあるいはガイアと考えられていた。またこの神託所は(単に女神を意味する)ディオーネーとも共有された。古典時代には、ギリシアのどの地域でもディオーネーは小さな役割のみを与えられており、ヘーラーが一般的なゼウスの妻としての一面を持ったが、ドードーナでは決してそうならなかった[22]。この神託所跡から復元された碑文の多くは、ディオーネーとナイオスのゼウスに捧げられたものであった。

いくつかの考古学者たちは、紀元前4世紀の直前になって、神託所に小さな石の神殿が追加されたとしている。

エウリピデスがドードーナに言及した時点(『メラニッペー』の断片)また、ヘロドトスが神託所について言及した時点では、巫女たちはこの地に現れていた。
古典時代古典古代ギリシアの主要な聖域地図


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