ドーズ法
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ヘンリー・ドーズ

ドーズ法(ドーズほう、Dawes Act)は、1887年2月8日に成立した、対インディアン政策の法律の一つ、「インディアン一般土地割当法(General Allotment Act)」の略称。

この通称は提案者であるヘンリー・ドーズ上院議員(Henry L. Dawes、マサチューセッツ州選出)に由来する。ドーズ法は1891年に改正され、1906年に再びバーク法によって改訂された。BIA(インディアン管理局)副局長だったケビン・ガバー(彼はポーニー族である)は2000年に、こういったインディアンの土地や主権を無効化する一連の合衆国施政について、「民族浄化である」と述べている。
概要

この法律は、従来、アメリカの内務省とインディアン部族の共同所有制のもとにある「保留地(Reservation)」を、部族単位の領土ではなく、各インディアン部族員個人に対して個人割り当て地として分割して「与える」ことを目的とする、アメリカ合衆国の法律である。

この法律の対象にならなかったチェロキーなどの部族についてはドーズ委員会が設立され、保留地の分割・個人割り当ての計画へ合意するようにと武力を背景にした説得がなされた。 文明化五部族の成員を登録したのはこの委員会であり、多くのインディアンの個人名がこの名簿には記載されている。

この割り当てられた個人所有地は完全な所有権が与えられたわけではなく、25年の連邦政府、内務省BIAの信託のもとに保留(Reserve)され、その賃貸・売却などの処分は自由にはできなかった。

1908年には、カーティス法によって、インディアン部族の土地領有権は否定された。
背景

アメリカ合衆国の成立以前から、北米大陸に先住するインディアン部族との土地の領有権を巡る争いは、入植政府の懸案であった。合衆国政府は1778年に初めてデラウェア州で、この地のデラウェア族と、領土と主権に関する条約を結んだ。

これは、「インディアン部族の領土」としてアメリカ合衆国大統領署名のもと、アメリカ内務省が信託保留(Reserve)した土地を認め、「主権国家の領土=保留地」(Reservation)とするものだった。以後、これを皮切りに、全米のインディアン部族と保留地を中心とした連邦条約が締結・解消を繰り返しながら結ばれ、これは1868年のネ・ペルセ族との条約締結まで続いた。

一方、入植白人の人口は1830年代から1885年の間に、合衆国西部において拡大急増した。この3000万人からおよそ6000万人近くへと増えた入植白人は、土地取引市場に対して、それまで以上の土地への途轍もない要求となった。さらに南北戦争後の400万人の黒人奴隷の解放がこれに拍車をかけた。

しかし耕作可能な土地のうち、いまだ定住者のいない広い領域はインディアン保留地や、まばらにしか殖民されていない保留地内の連邦政府所有地だけであった。また、インディアン保留地を通る入植者の幌馬車隊やカウボーイは、保留地のインディアンから通行税(たいていは牧牛)を取られた。鉄道の敷設は、これを拒むインディアン戦士の襲撃で度々中断した。入植者の不満は積り、年次倍増していたのである。これら各方面は、鉄道業界の資金提供によって、政府に保留地の信託保留(Reserve) の解消を求めて絶えず圧力をかけた。さらに西部から西海岸部に「金」が発見されたことで、事実上インディアンの主権は完全に無視され、その土地は蹂躙略奪されていった。

こうした動きの中、各部族と結ばれたインディアン条約は合衆国によって次々に破棄され、保留地を縮小する方向で結び直された。1871年には議会は「もはや合衆国はインディアン部族を独立国家と認めない、したがって今後は条約は結ばない」と決議したのである。

インディアン保留地の解消を要求する勢力を支持し連帯した東部の知識層は、「インディアン権利協会」、「インディアン保護委員会」、「インディアンの友」等の人道主義団体を結成した。また、そのなかにはインディアンもいた。幾人かのよく知られたインディアン言論人、なかでもサラ・ウィネマッカ(Sarah Winnemucca)や、ジトカラ・サ(Zitkala-Sa)といった、白人の英才教育を受けた「エリート」インディアン女性たちだった。彼女らは、保留地制度は間違っており、その中に閉じ込められたインディアンは決して自給自足できないと考えていた。

ことにジトカラ・サの出身部族であるスー族は農耕文化を全く持たない完全狩猟民であり、狩猟を禁止され、突然保留地で農業を強制された彼らは社会が完全に崩壊してしまい、飢餓のどん底に落ち込んでいた。彼女らはこういった窮状を東部の白人社会で訴えたのであるが、これに応じて出されたのは、「インディアン個人個人に土地を持たせて年金(小麦粉などの食料)をしっかり与えれば、いずれは農民となり、自給自足できるようになるだろう」との見当はずれな「人道的世論」だった。また、インディアンへのそれまでの「罪深い」歴史への反省としての東部白人知識層の盛り上がりは、「キリスト教によるインディアンの救済」というこれまた見当違いな方向へ向かい、「インディアン寄宿学校」へのインディアン児童の強制入学と白人への同化、というさらなる民族浄化を生んだ。ヘンリー・ドーズ上院議員も、こういった白人知識層である「インディアン市民権協会」の会員であった。

一方、この法案に対する反対者は精肉業界であり、インディアンから土地を賃りて(数十年単位の契約で、年間賃貸料が数ドルという理不尽なものが多かった)いた大牧場経営者たちの提携であった。また、それに加えて文明化五部族(Five Civilized Tribes)であった。かれらは、潤沢な資金と大きなワシントンへの影響力を有していた。合衆国下院は、殖民支持の勢力を満足させ、かつインディアンの利害を擁護しようと何年もつとめた挙句、最終的にドーズ法を起草して可決することとなった。
インディアン側の反応

この法案は、「小土地所有農民としての自立・同化がインディアンにとって最善である」という信念をもった、「インディアンの白人同化」を前提とした「人道的」な勢力と、インディアンの土地への欲望に駆られた産業界、移住者との意向が一致して成立したものであったが、当事者であるインディアンは大部分が反対した。文明化五部族などインディアン・テリトリーの十九の部族が法の対象から外れているのは、かれらが一致して非難を決議し、抗議文を大統領に送ったことによる。しかしそうした実力を蓄えていた部族をのぞいた大半のインディアンに対しては、その反対にもかかわらず強行されたのであった。

もともとスー族シャイアン族コマンチ族といった大平原と以西の狩猟民族たちにとって、土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。インディアンはそもそも大地を母と考え、今でもティーピーの柱を建てる際にも大精霊に許しを乞うような民族である。個人が土地を割り当てられて農場を強制されたからといって、自給自足が成立するなどという考えは、そもそもが農耕民族である白人たちの机上の空論に過ぎず、ただ社会を堕落させるのみだった。同様の問題は、豪州のアボリジニなどに見られ、未だにこれは解決されていない。

結局、ドーズ法の導入はインディアンの主権の放棄を促す民族浄化の手段でしかなかった。サラ・ウィネマッカなどは「白人側についたインディアンの裏切り者」としてインディアンたち、また母族のパイユート族から罵りを受けねばならなかった。
条文の概要ドーズ法

さしあたり関連のある部分についての要約を示す。

第一条では大統領にインディアンの部族の土地に対して調査を行い、そのうちの耕作可能な土地をインディアン個人の割り当て地へと分割する権限を与えた。条文によればすべての世帯主は160エーカー(647,000 m2)、すべての十八歳以上の単身者と孤児は80エーカー(324,000 m2)、すべての未成年者は40エーカー(162,000 m2)を受け取ることとされていた。


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