ドン荒川
[Wikipedia|▼Menu]

この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2013年2月)

ドン荒川
プロフィール
リングネームドン荒川
荒川 真
本名荒川 真
ニックネーム前座の力道山
身長170cm - 175cm
体重95kg - 100kg
誕生日 (1946-03-06) 1946年3月6日
死亡日 (2017-11-05) 2017年11月5日(71歳没)
出身地鹿児島県出水市
スポーツ歴レスリング
柔道
トレーナー山本小鉄
デビュー1972年9月19日
テンプレートを表示

ドン荒川(ドンあらかわ、1946年3月6日 - 2017年11月5日[1] )は、日本プロレスラー。本名:荒川 真(あらかわ まこと)。鹿児島県出水市出身。
来歴

学生時代は柔道を志し、出水学園出水中央高等学校卒業後に上京する。当時レスリングの大会に出場していたが、試合中にドロップキックを放って反則負けを取られる珍事が起きた。なおその試合の対戦相手は、後に国会議員としても活躍した松浪健四郎である。

1972年7月に新日本プロレスへ入門し、2ヶ月後の9月19日にリトル浜田(グラン浜田)戦でプロレスラーとしてデビューした[2]。また栗栖正伸とは同郷出身で、レスラーとしてデビューした年月も72年9月という同じ時期でもあり[3]、体格・試合運びも似ているライバル同士だった。2人の対戦は「鹿児島選手権」とも称され、ファンからも注目される。

1979年プエルトリコへ初遠征した。カルロス・コロンの主宰するWWCにて、ケンドー・キムラ(木村健吾)[4]との日本人コンビでWWCカリビアン・タッグ王座を獲得した[5]。同遠征での戦績は自己申告であるが、46戦中45勝とほぼ無敗で1敗は「」相手である。

キャリアを重ね、ストロングスタイルを信条にシリアスな戦いを目指す新日本では唯一、永源遙らと前座試合で『ひょうきんプロレス』を展開。[6]カンチョー攻撃」や「ローリング・キョンシー・アタック」など、斬新奇抜で面白い技を繰り出して笑いを取り始めた。また体格・スタイルが力道山に似ていたこともあり[7]「前座の力道山」と呼ばれた[8]

前座のひょうきん路線で順調に活躍していた1980年代中頃、UWF維新軍団カルガリーハリケーンズと次々に若手・中堅・ベテラン選手の大量離脱が続いてしまい、新日本プロレス旗揚げ以来のピンチが訪れた。そのため手薄となった選手を補う事態となり、荒川はジュニアヘビー級戦線にも参戦するようになる。1985年8月にはザ・コブラNWA世界ジュニアヘビー級王座に、続いて10月にはWWFジュニアヘビー級王座にも挑戦している[9]。更に翌年の1986年に行われた初代IWGPジュニアヘビー級王座決定戦にも出場した。その一方で道場では若手のコーチとして、山本小鉄と共に選手のまとめ役となり活躍した。

1989年3月、新日本プロレスを72年9月にデビューして以来16年半に渡る現役生活から一旦、退いた[10]

1990年10月16日、メガネスーパーが設立した新団体「SWS」への入団を表明し、新日本退団から1年7か月ぶりに現役復帰を果たした。

1992年6月、SWSが崩壊した後も荒川1人がメガネスーパーの社員レスラーとしてSWS所属を名乗っており[11]藤原組などに参戦した。

1996年藤原喜明とともに全日本プロレスに初参戦し、6人タッグマッチながらジャイアント馬場との対戦が実現した。翌年の1997年には、全日本プロレスの25周年記念の前夜祭に馬場&永源遙とトリオを組んで出場している。その他2006年には、ビッグマウス・ラウドなどにも参戦した。

2007年5月2日・3日の2日間、新日本プロレス創立35周年の節目となる後楽園ホール2連戦で、1989年3月以来18年ぶりに古巣マットに登場する。いずれも第1試合で若手[12]をコミカルなファイトを見せて健在ぶりをアピールし、見事に勝利を収めた。

2011年3月6日、NJPWグレーテストレスラーズを受賞[13]

2017年11月5日、死去。71歳没。関係者によると一線を退いた後、携帯ゲームの会社で営業部長職を務めていたが、1年ぐらい前から連絡が取れなくなっていたという[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef