ドン・中矢・ニールセン
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ドン・中矢・ニールセン基本情報
通称雷拳
階級
クルーザー級
身長188cm
体重85kg
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 (1960-07-08) 1960年7月8日
出身地カリフォルニア州ロサンゼルス
死没日 (2017-08-15) 2017年8月15日(57歳没)
死没地 タイ バンコク
スタイルキックボクシング
プロキックボクシング戦績
総試合数36
勝ち28
KO勝ち21
敗け8
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ドン・中矢・ニールセン(Don Nakaya Nielsen、1960年7月8日 - 2017年8月15日)は、アメリカ合衆国出身の日系人キックボクサー俳優カイロプラクター。1986年以降は日本のプロレスキックボクシングのリングで活躍した。
人物

1986年に初来日しプロレスラーとの異種格闘技戦で注目される。日本の選手を相手にUWFブーム、K-1ブームの原点と言える試合で話題を呼び、80年代後半から90年頃まで日本の格闘技界の立役者として知られる人物であった。

母方の祖父母(愛媛県出身)が日本人[1] の日系3世である。「ドン・ナカヤ・ニールセン」と表記されることもある。

12歳からタンスドー空手を学び、アマチュアボクシングで活躍したのち、18歳でアメリカンキックボクシングに転向。PKAヘビー級王者ブラッド・ヘフトン(1984年 6RKO負け)、モーリス・スミス(1983年 7R判定負け)[2] ら強豪とも試合を行った事がある。のちにムエタイに転向。1993年に引退[3]

現役時はベニー・ユキーデらが運営するジェットセンター所属。全日本キックのリングに上がる時は、正心館(後の新空手総本部、勇心館)所属となっていた。

ニールセンは1984年、映画「フィアーシティ」で俳優デビューを果たし、その後デル・クック主演の映画三作品に悪役で出演した。

入場テーマ曲は「アクション」(メガゾーン23 PARTII<音楽篇> 収録、ビクター音楽産業)。

来日する2年前の1984年8月15日、デビュー戦を間近に控える2代目タイガーマスクは、ロサンゼルスのボクシングジムでキックボクシングの練習風景を公開したが、その時のパートナーがニールセンである[4]。それを見ていたジャイアント馬場はニールセンに「レスラーになる気があるなら連絡するように」と伝えたという。

1999年2月21日、横浜アリーナで行われた前田日明の引退試合には、アントニオ猪木天龍源一郎山本小鉄高田延彦松井章圭らと共に来賓として出席した[5]
私生活

妻のシェリルと結婚し、コーリー、ケーシー、コルビーの3人の息子がいる。[6]
カイロプラタクターとして

 ニールセンは、1986年にクリーブランド大学カンザスシティ[要曖昧さ回避]校でカイロプラクティック博士号を取得し、卒業後、患者の治療を行っていた。1987年よりタイに渡り、ムエタイのジムでトレーニングしていた。そこで仲間のキックボクサーの治療もしていたが、カイロプラクティックがタイ国内で殆ど行われていないことを知る。地元の病院と提携し、毎月のチャリティーツアーに参加して遠隔地の恵まれない人々にカイロプラクティック治療を提供し支援する傍ら、タイで合法的なビジネスとしてのカイロプラクティックを確立するための拠点として、1993年3月に「バイオエナジーセンター」という療養所を開設した。

しかし、当時タイではカイロプラクティックは保険治療として認可されておらず、労働許可証(ワークパーミット)を取得し事業を行っていてもカイロプラクティックの治療行為は違法に近いため、タイの保健省理学療法看護師の下で治療行為を行うことをニールセンらに要求した。無免許無認可で療養所を運営したとしてタイの裁判所に告発され逮捕・起訴されたこともあったが、タイの医療評議会による監督なしにカイロプラクティックが合法的に行えるよう提唱し活動を重ねた結果、2007年7月にカイロプラクティック法が施行され、カイロプラクターは職業として公認された。

医学博士として、保健省によるカイロプラクティックの実践を促進する多くの組織で働いたニールセンは、タイカイロプラクティック協会[7] の創設メンバーおよび初代会長となる。「バイオエネルギーアジアクリニック」の創設者でもある[8]
死因

2017年8月14日、ニールセンはバンコク腎不全敗血症を引き起こし、足の感染症を治療するための手術を受けていたが、処置中に心臓発作を起こして昏睡状態に陥り、入院から2日後の2017年8月16日に死去。57歳没[9]。ニールセンの葬儀はタイとアメリカで行われた。バンコクでは、8月22日から8月24日まで、タットトン寺院で火葬と葬儀が行われた。9月16日、ロサンゼルスのローリングヒルズメソッド教会でウェイクが行われた。
日本での戦歴

1986年昭和61年

10月9日 - 両国国技館で行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE」の第7試合で、前田日明と3分10Rの異種格闘技戦で対戦。打撃で攻め立てるニールセン、蹴りと組んで関節技を狙う前田との緊張感溢れる熱戦は格闘史に残る名勝負となり、最後は5R2分26秒、逆片エビ固めを極められ敗退。この試合で、前田は「新・格闘王」の称号を得た。


1987年昭和62年

3月27日 - 前田との異種格闘技戦で人気急騰したニールセンは大阪城ホールで行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE Part2」で再来日。チャーリー・アーチとマーシャルアーツIWA認定クルーザー級USアメリカン選手権3分10Rで対戦、3R50秒KO勝ち。

10月30日発売の週刊ファイト1987.11.6号で、ニールセンが電話取材で新日本プロレスの年末の特別興行で高田延彦と異種格闘技戦を行うと証言したと報じる。11月6日発売の週刊ゴング1987.11.20号では「12・27両国「INOKI闘魂LIVE3」の3大目玉カード」の一つとして高田vsニールセンの可能性が記事になったが実現しなかった[10]


1988年昭和63年

5月8日 - 新日本プロレス「'88 スーパーファイト・シリーズ」最終戦 有明コロシアム大会で山田恵一と異種格闘技戦で対戦[11][12]。山田のタックルで再三テイクダウンされるがペースを握らせず。4ラウンドに放ったローキックで負傷した山田の右足に追い打ちをかけ4R1分3秒、KO勝ち。試合後、リングサイドにいた山田の骨法の師、堀辺正史が舐めた態度で試合をしていたニールセンに激高、「次は俺と戦え!」と突っかかる場面がみられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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